「ソウル〜丹東〜瀋陽(2000年7月)」

仁川〜丹東を「東方明珠」号で旅する


その4・ケンチャンナ

  

中国に着くといつも感じるのは、そこにいる人々の好奇心に溢れ、ギラギラとした眼差しだ。
ここ丹東の港でボクを迎えてくれたのも、岸壁で待機している港湾労働者たちから発せられる無数の視線。
そして対照的なのが、タラップを降りきったところに突っ立っている、カーキ色の制服、制帽を着用した公安の無表情な眼差し。彼も仕事とは言え、この暑いのに制服をちゃんと着て大変やなぁ。

ボクたちを乗せたバスは、有無を言わせぬスピードで港を通り抜けていく。あたりは本当に何もない。造成されてまだ間がない、土がむき出しの荒野がただ広がっている。
中国のことだから、数年後には巨大な倉庫群が立ち並んでいるかもしれないし、このまま草原と化しているかもしれない。

ボクは、隣に林さんが座ってくれているから、それはもう「大船に乗った」つもりで、気楽なモンだ。
林さんからは、丹東にある林さんの会社の事務所で日本円から人民元に両替してもらえる約束をしてもらっている。入国審査を済ませ二人でその事務所までタクシーで一緒に行けばいい。

バスは10数分は走っただろうか、いきなり原っぱの真ん中にぽつんとある建物の前で止まった。仁川のターミナルに較べたらずいぶん立派な白い建物。どうやらここがイミグレーションらしい。
バスのドアが開けられ、みんな降りていく。このバスに乗っている人たちはみんな上級船室を使っていた人だから荷物は「比較的」少ない。

バスの外で待っていた例の無表情の公安たちにうながされて、建物の内部に入る。そこは外見から想像もつかないほど奥行きのある広いホールになっていた。左手には中国入国ビザを発行するカウンターが10ほど並び、右側は入国検査のゲートになっている。
そういえば、フェリーの中にビザの申請用紙が置いてあった。船の中で査証が発給されるのかと思っていたんだけど、この様子だと、丹東港では、ビザなしで来て、申請書さえあればここでビザを発給してもらえるのかも知れない(でも、これは未確認。また、丹東港で発給されるビザは地域限定のビザかもしれません)。

中国のイミグレはどこでも「中国人」「港湾同胞華僑」「外国人」にゲートが別れている。
林さんはマルチビザ、ボクはもう一回入境できる二次ビザを持っているので「外国人」のゲートに並ぶ。
中国の入国審査は何回経験しても緊張する。上海や北京の空港だとそうでもないのだけど、地方空港やここのように、広くて審査を受ける人数に対して公安の数が多いところは余計緊張してしまう。どんないちゃもん付けられるかわかったもんじゃない。
林さんの順番になって、彼が窓口まで進みパスポートを渡す。
何か短いやり取りがあって、無事に通り抜けるのかと思ったら、何かもめてるみたい。
船室で彼のパスポートをチラッと見たときには、彼の査証には何も問題が無いように見えたんだけどな。
林さんは赤い顔をして、係員に抗議しているけど、どうもラチがあかない。と思うと、荷物を持って別の公安と一緒に別の場所へ連れて行かれてしまった。ボクには目もくれない。
「ありゃりゃ! 林さん大丈夫かな?」
近くにいた公安が林さんの後ろに並んでいたボクに、さっさと窓口へ進めと手で合図する。どうすることも出来ないボクは、入国審査を受けるしかない。 窓口の公安はボクのパスポートナンバーとビザのナンバーをコンピューターに入力して、画面に何の変化も現れないことを確認すると、パコンと入国のスタンプを押す。そして乱暴にパスポートを投げ返してくる。
一瞬「むっ」とするけど、そう、これが「Well Come to China」なんだ。

香港を経由して中国に入国すると、荷物も全部開けて入念にチェックするけど、丹東港でのセレモニーは、入国スタンプを押してもらうだけ。税関の検査場には巨大なX線検査機(らしい)ものもあったけど、小さい荷物のボクには誰も目もくれない。税関も検疫も歩いて無言で通り抜けた。
「東方明珠号」の乗客で一番にイミグレを通過した。

そんなには心配していないけど、「路頭に迷う」とはこのことなのか。
今、目の前にある薄っぺらい扉を開けると、そこはもう中国だ。林さんが無事に開放されて入国できるのかどうかは知るすべも無い。ここで引き返して尋ねようとしても、ボクの拙い語学力では相手にされないだろう。ここは、一旦外へ出て待つしかないな。もう、今日中に瀋陽に移動するのは諦めたほうがいいかもしれない。

税関の扉を開けると、広いホールにちらほらと出迎えの人たちが所在無さげにたたずんでいる。右手にある玄関を抜けると、これまた広いチケット売り場。誰もいない。
チケット売り場の出入り口にはしけた土産ものを売る店が2軒。そして外はどこか田舎にある鉄道の駅前のような広場になっている。そこには10台ほどのタクシーと10台ほどのトラックが駐車してある。ただそれだけ。旅館も食堂もなんにも無い!
ボクがかすかに期待していた二つのものも無い。まず、銀行。きれいさっぱり、カケラもない。やっぱりここでは両替できそうにない。そして二つ目はバス。ここから丹東の駅まで船の発着に合わせてバスがあるんとちゃうかなって一縷の希望をもっていたんだけど、その希望もあっさり消えた。バス停らしき看板も、バスもきれいさっぱり「無い」。「没有」だ。
両替は出来ない、バスも無い。僅かな人民元しか持っていないボクは、もう林さんにおすがりするしか術が無い。

西日がまぶしくて暑い。ボクは広いホールまで退却する。
ホールは広くて、外とは違うちょっとひんやりした空気が流れている。
多分、タクシーの運転手なんだろうな、目ざとくボクを見つけて「俺のクルマに乗らないか」と言っているんだろう、営業を掛けてくる。
中国人のたくましさを目の当たりにするのはこんな時だ。国営の商店やデパートの店員は全くやる気が無いのに、個人営業の商店やタクシー、ミニバスの運転手は実に商売熱心。こちらは明らかに外国人で、中国語なんて数えるほどしか解からないのに、そんなことはお構いなしに「熱烈歓迎!」だ。べらべら話し掛けてきて、ボクが「要らないよ」って手を振ったり、彼の言葉に無表情で返したりしても、そんな優しい否定の仕草は目に入らない。
たちまち、数人の運転手に囲まれてしまう。中にはボクの荷物を強引に持っていこうとする奴までいる。
でも、今のボクには運ちゃんたちの相手をする冷静な気持ちは全く無い。心が憔悴しきっている。「これからどうしたらいいんやろう?」

運転手たちにボクの困惑が伝わったからではでは決してない。
やがて、税関の扉は開けっ放しになり、次々に東方明珠号の乗客たちが出てくる。この新しい獲物めがけて、運転手たちは物言わぬボクの傍らから離れていく。
荷物を運ぶのは巨大なカート。空港とかに置いてあるカートを実用一点張りにして、なおかつ強力にしたような代物だ。その強力カートは一体どこにあったのかわからないのだけれど、1台のカートに縦・横・奥行きそれぞれ1メートルはあろうかというダンボールケースを4つも5つも積んで出てくる。こんな荷物、船からここまでどうやって運んできたんだ?こんなに巨大で大量でもやっぱり「手荷物」なの?
開け放たれたドアから見ていると、この手荷物たちが次々にX線検査機に通されていく。あの機械はほんとに「検査機」だったんだ。
カートに載せられた荷物はどこからこんなに人がやってきたのか、待ち構えていた人たちの手によって、どんどんトラックに積み込まれていく。しかし、半端な数じゃない。荷物をここまで運んできた東方明珠号の乗客たちは、迎えの家族なのか知り合いなのかと落ち合って少し話し込むと、いずこかへ立ち去ってしまう。

ボクがイミグレを通過してかれこれ30分は過ぎただろうか、おびただしい物資はいつ途切れるとも知れずまだまだ運び込まれてくるが、林さんは出てこない。
それにしても、前回の中国旅行から帰国するときになんでもっと人民元を残しておかなかったのか、後悔先に立たずとはこのことやな。
この時まで気がつかなかったんだけど、チケット売り場の壁に丹東駅発の列車の時刻表が貼ってある。見上げると、丹東19:30発の北京行きの特快があるではないか、これに乗れたら今日中に瀋陽に行けそうや。切符は手に入るかな、瀋陽まで4時間の立ちっぱなしはつらいな。今は16:30、果たして間に合うかな。
イライラし、どきどきする。
やがて、駅前にいたトラックの数が減り、タクシーの数も残りわずかになる。この時間まで残っているタクシーの運ちゃんはきっと「口下手」なんだろう。 ボクの「あせり」が次第に「あきらめ」になる。
のどが渇いているんだけどこんなところで、貴重な人民元を使えない。ここはぐっと「我慢の子」。かと言って水道の蛇口から出てくる水をそのまま飲む度胸も無い。

この時の気持ちはどんな気持ちだったのだろう。ちょっと例えようがない。
針のついた餌をくわえてしまった魚の気持ちなんだろうか。いや、そんなものじゃない。そんな魚だったら、もう諦めている。今のボクはもう諦めるのかそれとも待つのか、その決断を迫られている。
タクシーに一人で乗って丹東駅まで行けば、街の中には両替できる場所があるかもしれないし、闇で両替してくれるおばちゃんを見つけることが出来るかもしれない。街で両替できなかったら、どこかに宿を取って今夜は丹東で一泊かな。
林さんと一緒に瀋陽まで行こうと約束しているだけに、つらい。わからない結論を「待っているだけ」という今の状態はつらい。しかも、約束をしてもらったことで、ボクの心の緊張が一度切れてしまっているから、このダメージは大きい。
林さんは出てくるのか、それとも何らかの理由で入国を拒否されてしまったのか。
頭の中ではなんとかなるさ、と解かってはいるのだけど、体が動かない。

やがて、税関の扉が閉められる。
もうあかんな。
林さんは入国できなかったのか、何があったんだろう。それにしてもやっぱり中国やなぁ。
と、そのとき、扉が開いて、林さんが走って出てきた。
「待ってくれていたのですか?」
「そりゃ、そうですよ。朋友じゃないですか」
「やぁ、すいません。ビザの取り直しを要求されて、写真がないから、1枚50元も出してポラロイドで撮影していたらこんなに遅くなって、何分ぐらい待たせましたか?」
「1時間ぐらいですかね、でもケンチャンナ!」
「さぁ、今から急げば北京行きに間に合いますよ」
ってな感じの会話があって、残っているタクシーに飛び乗る。
タクシーの運ちゃんに話している林さんの言葉を聞いていると、彼の普通話は相当巧い。
「駅まで、大急ぎ! 料金は幾ら?」「50元」「二人で?」「そうだ」「じゃぁ、大急ぎで!」って感じ。
ボクは「二人で?」っと言うのを「リャンガレン?」だけ理解できました。
そんな情けない語学力でよく旅行するよな。

林さんとタクシーに乗り込むと、なんか急に力が抜けて、張り詰めていた空気がしぼんでいくような感じ。
ほんとにケンチャンナやねん。