フランドル

人類はいつまで“戦争”をし続けるのか



  

もちろん。ボクは兵役についたこともなければ、戦争を経験したこともない。

世界のどこかで行われている戦争についての統制され都合よく編集された情報が、TVや新聞というメディアから、断片的に流され、それらに接するだけ。だから、戦争をリアリティのあるものとして捉えることが出来ない。全く戦争とは関係なく、安全地帯にいて、興味の対象としてそれらの情報に触れるだけ。

今まで隣にいて、一緒に話していた男が、いきなり砲撃や銃弾に倒れ、その存在が無くなってしまう、すなわち死んでしまうとは、果たしてどんな感情を自分にもたらすのだろう? 全く想像すら出来ない。
ましてや、自分とは何の利害関係も無い相手に対して、命令や任務という号令のもと、銃を向け、そして放つ。殺してしまうかもしれないのではなく、明らかに恣意的に相手を殺すことだってある。相手を倒さないと、自分が倒されるかもしれない。
それが戦争なんだろう。

顔付きも服装も、もちろん言語や文化も違えば、自然環境も全く違う。そこに存在する優劣は、どちらが暴力的に勝っているかという原始的なものにしか過ぎない。モラルも人格も法律も存在しない。殺すか殺されるのかという単純な原理。暴力だけが支配する原始的な世界。それが戦場。
幸か不幸か、軍隊としての規律や、作戦という範疇から外れてしまい、駒という戦略価値を無くしてしまう。友軍の支援が期待できず、全くの異文化で異質の大地に取り残されてしまったら、個人としての兵士に、自ら命令や任務を遂行するというモチベーションは保たれるのだろうか?
きっとそれはムリだろう。そこには、自分の生に対する執着と運だけが左右する別の戦場がある。

この映画は、ストーリーそのものにメッセージ色はそんなに濃くない。それどころか、ストーリーに何か意味を見出そうとするのは少ししんどいかもしれない。実は、主人公は自分の心情を吐露することが全くないのだ。
それだけに、観ているこちらが背景に隠れているメッセージをしっかり受け止めてる必要がある。

田舎街で農業に励んでいた武骨な青年。徴兵という制度のもと、自らは決して望んではいない軍隊に、兵隊として送り込まれる。そして訓練を受けた後に、戦地へ送られる。
兵役は国民の義務として制度化されている国は少なくない。今までとは全く価値観が異なる世界に放り込まれて、文字通り“異常な体験”をするのだ。
そして、唐突にそれは終わり、まるで何事もなかったように、もといた世界に送り返される。

今まで一体、何人の人が戦場に送り込まれ、そのうち何人がそのまま帰ることなく、そのうち何人が帰って来たのだろう。そして、いつまでこんな経験をする人を送り続けるのだろう、人類は...。

タイトルやポスターから連想するものとは全く違う作品でした(ここまで違うのも珍しいけど)。
出演している俳優さんが有名な方なのかどうかはわからないけれど、不器用で武骨な青年と、田舎街の娘。この二人は特定の誰かではなく、象徴なんだろうな、きっと。そんな意味ではとても上手く演じているのだと思いました。
また、ずいぶん前に観た「キプールの記憶」という作品を思い出しました。

人類とは何か。国は軍隊は、そしてそれらを構成する個人とは何なのか。そんなことを考えさせられる作品ですね。

おしまい。