私たちの幸せな時間

人生が交わるところにドラマが生まれる



  

原作があるお話しが映像化されるときは“読んでから観る”か“観てから読む”のか、それはそれは結構悩んでしまう。今回のように、主演がイナヨンとカンドンウォンと知ってしまっていると“読んでから観る”楽しみは、だいぶ薄れてしまっているけどね。

普通、新聞やTV・ラジオのニュースで殺人事件が報道されると、眉をひそめてしまう。もっともなことだ。相手を殺してしまうという暴力で事象を解決(決着?)させる荒っぽい手法を忌み嫌っているからだ。
しかし、それはその事件の表層しか知らされてないからなのかもしれない。その事件一つひとつに殺人という結果に至るまでに様々な伏線があったであろうことを忘れているから。かと云って、何も殺人という罪を犯してしまった人を擁護するわけでもない。もちろん、各々にはそれなりの原因があるのだろう。その中には、きっと十分に同情できる理由がある事件も少なくないだろう...。
ただ、殺されてしまった人やその家族にとっては、たとえどんな理由や背景であったとしても、決して犯人を許すことは出来ないのも理解できる。

結局、人生はドラマだ。
そのドラマを演じるのはもちろん本人だし、劇的なドラマもあれば、波風が立たないドラマもあるだろう。人間が生きていき、社会が動いていくところには、必ずドラマがあるんだな。要は、それを多くの人が知っているかどかの問題なんだ。
死刑囚と彼を取り巻く人々との間にもドラマが生まれる。死刑囚になるまでのドラマもあれば、なってからのドラマもある。ドラマも複雑だけれど、人生はもっと複雑だ。
何かが原因で、本来は出会うはずがなかった人と人とが出会い、そこにドラマが生まれる。出会わなければ起こらなかった心の動きが生まれ、人間は影響しあって変わっていく。う〜、不思議だな。

何不自由なく育ち、海外に留学し、かつては歌手として活躍し、今は親のコネで大学で教鞭をとっているユジョン(イナヨン)。しかし、彼女は、心に傷を負い、自分の家族を愛せない。自暴自棄になり、親に辛く当たり、生きることに倦む日を過ごしている。
そして、死刑囚として刑務所の一部屋で暮らすユンス(カンドンウォン)。彼は貧しい家庭に育ち、親に捨てられ浮浪児として過ごすうちに最愛の弟を亡くしてしまう。そして、悪い先輩に誘われて強盗に入りそこで殺人を犯してしまったのだ。
あることがきっかけになり、この二人が、毎週木曜に数時間だけ時間を共有するようになる。最初は義務感と嫌悪感しかなかった二人だけれど、次第にお互いが自分に似ていることに気が付く。
人を信じられず、投げやりになって生きていくのがイヤになった男。希望が見出せなくなり息もするのがイヤなくせに家族という足枷から抜け出れず自殺を繰り返す女。
女は初めて、他人のために何かをしたいと思い、男はもっと生きたいと思う。しかし、この二人の幸せな時間は、もうわずかしか残っていなかった...。

もちろん、イナヨンとカンドンウォンという役者さんが演じているせいもあるけど、それだけではなく、社会においての死刑制度を考え直すきっかけになるかもしれない。罪を犯した償いとして命をかけるとはどういうことで、それを誰がどんなプロセスで決定するのか。考えてみたら不条理なことだらけのような気がする(もっとも、死刑囚の誰もが悔い改め更正するかどうかは、また、別の問題かもしれないけど)。
原作を読んだときも恥ずかしながら落涙。そして、映画を観ながらもまたしても目頭が熱くなった。つくづく、人間は不思議な感情を持っているのだと思う...。

自暴自棄になったり、人生に疲れ切っている時にご覧になるといいかもしれません。
心がキレイになったり、感動するお話しではありませんが、何かが変わるかもしれませんよ。

アンニョン