ゾディアック

時代が要求した物語りなのか



  

どうやって観る映画と観ない映画を決めるのか。その基準は、実にアイマイでイイ加減なもの。アジア系の作品だと、よっぽどのことがない限り拝見するようにしている。その割には、どかんとプロモーションをしているハリウッドの大作は、なぜかあんまり観ない。要は「へそ曲がり」なわけだ。
この「ゾディアック」はアメリカの作品だし、最初はボクのさび付いたアンテナには引っかかってこなかった。が、ふと手にした夕刊の映画評の結びに“必見”という文字を目にして、よっしゃ観ようと決めた。地味目の作品の上映期間は短い。いろいろ調べて神戸にある109シネマズHATでレイトショウをやっているのを確認して出かける。

果たして“必見”であったのかどうかは良くわからなかったけれど、2時間をオーバーする上映時間があっと言う間で、途中時計を見ることもなかった(ボクは意外と、映画の途中で時計を見ることが多いのです)。

こんな事件があったことは知らなかった。
ゾディアックと名乗る犯人が引き起こす連続殺人事件。事件そのものの異常性と残忍性、異常人格とも思える謎のゾディアック。犯人は警察にではなく新聞社に犯行声明を送りつけている。そんなゾディアックを追う三人の男の物語り。
そんな彼を血眼になって追う刑事と新聞記者。それを少し離れた場所から見つめる新聞社のイラストレーター。
ゾクゾクとしながら画面を見つめた。何とも多くの証拠が残され、包囲網は徐々に狭められていく。謎解きと犯人逮捕はもう目の前にあると思ったのだが...。

多くの日本人なら、三億円事件が未解決だと知っている(まぁ、今となっては、知らない人もいるかもしれないけど)。だから、この三億円事件をモチーフにした映画が撮られても「あの未解決の...」と思って観るわけ。しかし、あらかじめこの事件の概要を知らないボクはドキドキしながら展開を待つしかない。ゾディアックが結局“謎のMr.X”のまま終るとは知らないからだ。
だから、この映画は史実(?)としての事件を知っているか否かによって、観かたや受ける印象は大きく変わってくるのではないだろうか。作り手は事件の結末を知っていることを前提にこの映画を撮ったような気がして仕方ない。

観終わってすっきりするのは“勧善懲悪”。
しかし、この映画は結末が無く、観終わってモヤモヤしたものが苦く残る。それは当然だ。でも、そのモヤモヤした印象を残す以上にこの映画が(もしくは映画を作った人たちが)伝えたかったものは何なのか。
それは「1960年代、70年代のアメリカは法治国家だった」ということではないかと思った。今のアメリカはあやふやな情報を元にして中東に殴り込みの戦争を仕掛けてしまうような国なのだ。
映画の中でリーは限りなくクロに近い容疑者として描かれている。リーこそがゾディアックであったかもしれない(違うかもしれないけど)。だが、彼はその当時の米国の法律と照らし合わせてみると、決定的な証拠は出て来ない。だから彼は拘束されることも逮捕されることもなく生涯を終える。それが良いことか悪いことなのかはわからない。でも、思い込みや見込みではなく、リーはフェアに扱われている。
“勧善懲悪”が重要なのではなかったのだと思う。自ら作ったルールに乗っ取り、そのルールをフェアに運用してきた事実が大切だったのではないかな?

そんな深読みが必要だったのかどうかはわからない。
でも、時代はそんな深読みが必要なほどの問題を抱えているのかもしれない。

お話しそのものは大変良く出来ていて、見応えあり。
刑事(マーク・ラファロ、まるでコロンボのような風貌だけど)はもちろん、敏腕の花形記者(ロバート・ダウニー・Jr)、それにイラストレーターを演じるジェイク・ギンレイホール(この人「ブロークバック・マウンテン」のお兄ちゃんだったのね!気が付かんかった! 若き日のアル・パチーノみたいだとは思ったけど)もいい。
時代をしっかりなぞっているのかはわからないけど、ファッションやクルマはなかなか素敵。
この映画は、家庭のTVでご覧になるのは苦しいかもしれない。上映時間が長いことと、かなりの集中力が要求されるから。本当は、暗闇の中でっかいスクリーンを前にして観るのがいいです。

しかし、赤ん坊を投げ捨てられてしまいそうになり、クルマから飛び降りたお母さん。この人は一体何をしていたのかなぁ...。

おしまい。