ロッキー・ザ・ファイナル

やっぱり、胸が熱くなる



  

ロッキーを始めて観たのは、何時何処でだったのだろうか。それは思い出せない(もう30年ほど前の製作だから、きっと大毎地下でのリバイバルだと思うけど)。
それでも、名もない“イタリアの種馬”が、偶然から世界戦への切符を手にしてチャレンジしていく姿に、スクリーンの前で若かりし頃のボクが胸を熱くし、目頭を押さえていたのをつい先日のことのように思い出すことは出来る。
そして、この作品の偉大さはロッキーと聞けば、自然とあのテーマソングが脳裏に響くこと。そんな映画はそうそうあるもんじゃない!

そして、あれから何年の月日が流れたのか、ロッキー・バルボアも年老いた。そして、当然ボクも老いを感じる年頃となった(気持ちはまだまだ若いけどね)。
シルベスタ・スタローンは、きっと何時までたっても、この映画の中のロッキーと同じように、ロッキーだと思われて、街行く人に見られているのだろう。そして、今回のこの作品には様々な思いや思惑が秘められているのだろうけれど“ロッキーとの決別”が最も重要なテーマであることは、想像に難くない。

何事にも重要なのはモチベーションだと思う。理由や必然性があり、そして納得しないと人間は本能や偶然だけでは継続的な活動は出来ない、動けない。
この映画の話しを耳にした時、最初に思ったのは、いったい何がロッキーをリングへ向かわせたのか、その理由であり、ファイトさせたモチベーションをどう設定するのかだった。まだまだ若いチェミンスクがリングに上がるのではなく、もうベテランの域に達しているシルベスタ・スタローン。

ストーリーはご覧になってのお楽しみとして...。
驚いたのはバート・ヤングがまだあの食肉工場で働いていたこと。そして、彼にも等しく時は流れていたこと。タリア・シャイアは鬼籍に入っていたのは淋しい。この作品では写真でのみの参加ですね。こんなふうに毎日お墓参りしてもらえれば、さぞかし幸せだろうなぁ...。
そうか〜、子供も成長してサラリーマンになっている。彼の役はスパイダーマンのトビー・マグワイアにしてもらいたかった。今回のヒロイン(マリー)は、うぅ、ボクが苦手なエミリー・ワトソンかと思っていたらジェラルディン・ヒューズという方なのね。

冷静になって振り返ると、まぁまぁって感じだけど、劇場が明るくなった時にはちょっぴり胸が熱くなっていました。若い人たちはどうだったのかな? ロッキー伝説の一部に触れられて良かった、なんて感じだったのでしょうか。
これでシルベスタ・スタローンも思い残すところなく、ロッキーとはケリを付けて決別出来たのではないでしょうか。

実は、ボクはよっぽどレンタル店へ行ってロッキーシリーズを借りて来ようかと思った。でも、思いとどまった。ボクのロッキーは、フィルムに焼付けられていたり、モニターの中にいるのではない。ボクの心の中にいる。調子に乗って借りてきて、心の中のロッキーを壊したくはないのだ。
(しかし、このシリーズ。一体、何本あって、そのうち何本目までボクは追いかけて(見て)いたのか。それが思い出せないんだよなぁ)。

おしまい。