孔雀−我が家の風景−

雨に流れる練炭の黒い涙の哀しさ



  

大陸の大陸らしい映画が観たいと思って出かけた。
そして、おそらく現地での評判や興行成績はもう一つだっただろうなと思いながらも、ボクの心の中にある“いかにも大陸らしい”という表現にぴったりな作品だった。
それは言葉を変えると“外国人受け”するお話しであったからなのかもしれない。調べてみると、予想通りというか、この作品は05年のベルリン映画祭で審査員特別賞・銀熊賞を受賞。

中国の人たちにとって、映画の中の主人公たちには、高層住宅に住み、自家用車に乗ったり、着飾ってレストランで食事したり、百貨店やスーパーでショッピングを楽しんでもらいたい。その姿に自分を投影して憧れたり、国の近代化を我がことのように確認したいのかもしれない。その方がきっと出資者や関係当局の受けもいいだろうしね。
でも、ボク(外国人?)が中国の物語りに求めるものは少し違う。
それは、一軒の家に何世帯もが同居する狭い集合住宅に住んでいて、近隣の住民とはとっても濃厚で何でも助け合い、分けあう大家族のような日常生活であったり、食事は一家が必ず全員で食卓を囲み、大皿に盛られたおかずをお母さんが子供のお茶碗に載せてやる、そんな団欒が当たり前のように繰り広げられる世界なのかもしれない。
食事のシーンだけをとって考えてみると、前々から気が付いていたけれど、大陸や台湾・香港出身だけど欧米でメガホンを取っている監督が、中国圏を舞台にして撮った作品には間違いなく食事のシーンはない(あってもごくわずかで、しかもスマート)。これは、今までの映画で描かれてきた食事のシーンがイヤだとか恥ずかしいのではなく、そこに住んでいなければ有り得ない、発想できないからではないかと思う。
もう数年、いや10年はかかるかもしれないけど、中国圏の映画の中での食事の風景は一変してしまうかもしれないな、そんな気がするな。ひょっとしたら、こんなシーンは映画の中にだけ存在するようになってしまうかもしれないな(わかりにくい余談が長くてすいません)。

本当にこんな世界が70年代の後半(今を去る30年ほど前)にあったのかどうかはわからないけれど、いろいろな要素が組み合わさって盛りだくさんのお話し。
何十年も何も変わらない世界に住んでいたら、こんな映画は作り得なかった。でも、爆発的な勢いで成長し、物価どころか、価値観も倫理観も何もかもが急激に変化している中国でこそ、まさに“今撮らなければ、何時撮るんだ”という内容(ちびっと大袈裟かな?)。

ある一家。両親と三兄弟。長男は精神障がいを持っている。突拍子も無いことをしでかす長女。勉強は出来るが気持ちに弱いところがある次男。多感な時期にさしかかっている長女と次男には長男の存在が、正直に言ってかなり負担になっている。
長女と次男がどんな生活を送っていて、どんな性格をしているのか。そしてどのように長男のことを思っているのか。その描写は細かく(やや過激でかつ詰め込みすぎかとも思わないでもないけれど)、上手い。
落下傘、電気工のお兄さん、初恋の少女の残酷さ、毒薬、練炭、そしてベッドの下にしまわれていたタバコ...。とにかく、どのエピソードもよく練られていて、美しく悲しく上手すぎる。
そして、この三兄弟にとっての青春時代は瞬く間に過ぎ去って行く。人生はそれぞれが歩んでいくものだとは知っているけど、両親の暖かく時に厳しい庇護のもとから飛び立った三人。そのそれぞれが、自ら飛び出したのか、飛び立って行ったのか、それとも親のお膳立てに乗っかっただけなのかは別にして、もう一度この街で集うことになる...。

人生は何が幸せなのかはわからない。でも、もうやり返すことは出来ないのだな。そんな当たり前だけど、どこか不思議で残酷な時の流れをしみじみと思い出させてくれる。何も「親の言うことを聞きなさい」という教訓でも何でもない。これは結果的にそうなっただけで、もう10年後にはこの三兄弟だってどう変わっているかはわからない。
外見は“外国人受け”するような装いだけど、その中身は洋の東西を問わず、何処に暮らしている誰にでもあてはまる普遍的なことが描かれているのだと思います。
飄々としているようで濃厚。そして美しいだけではなく考えさせてくれる作品。観終わってすぐには何も感じないかもしれないけど、時間の経過と共に何時までも忘れられない、もう一度思い返してしまう作品。
チャンスがあれば映画館のスクリーンで、なければDVDかビデオででもお楽しみいただきたい作品だと思います。

そうか〜。お話しそのものや語り口が“外国人受け”するのではなく、舞台装置がそうやったんか。すると、この監督はやっぱり“上手い”んやな。
二人が口を大きく開けながら見入っているTVの画面に何故か高倉健が映っているのが妙におかしかったです。はい。

おしまい。