パヒューム ある人殺しの物語

やはり、映像化にはちびっとムリがあったような...



  

遥か彼方昔のこと。この映画の原作本を読んだ。調べてみると88年の12月に発売されている。もう20年近くも前のことなんだなぁ...(感慨深い)。
そういえば同じ時期に読んで印象に残っているのが「透明人間の告白」(こちらは88年6月発売)。長く記憶に残っている理由。それは、もちろんお話しがとても面白かったことだけど、もう一つこの両作に共通しているのは、“いずれも言葉による描写でこそ伝わるストーリーであり、映像化はかなり難しそうだ”ということ。アタマの中で想像するのは難くないものの、映像には出来ない(だろう)と思った。
しかし「透明人間の告白」は映画名「透明人間」として92年に映画化されている(残念ながら、未見)。そして「香水」もとうとう映画化された...。

これは難しかった。
その理由は三つあると思った。
まず予想通り、扱っているのが「香り」だけに、映像での表現には限界があったということ(そういえば「チャリチョコ」の公開時に東京の映画館ではチョコレートの香りを漂わせたという話しも聞いたような...)。それに、この映画に出てくる香りは、調合された芳香漂う香水のものだけではない。どぎつい香水が必要なほど、当時はいろんな臭いが充満していたんだろうなぁ...。それは想像に難くない。
もう一つ。主人公の“思い”が全く伝わって来なかったこと。ジャン=バティスト・グルヌイユが類稀な嗅覚を持っていたことは理解できたし、その能力を生かして香水調合の天才であることもわかった。でも、彼が何のためにどんな香水を作ろうとしたのか。それが全く描かれていなかったし、理解出来なかった。動機が描かれないままにお話しが進んでいくと、つまり、彼の行為はまるで偏執狂にしか過ぎない(これでも控え目の表現だと思う)。
どうして美女なのか、どうして10人なのか、その10人の香りを調合すれば“究極の香り”となることがわかっていたのか...。などなど、説明されない事柄が多すぎる。第一、もし、彼の頭の中に“究極の香り”のイメージが出来上がっていたとすれば、それは何も人体から採集しなくても、他の代替出来る素材があっても不思議ではないし、彼ならその能力も備わっていたはず。
また“究極の香り”を何に使いたかったのか、それを使って何を成し遂げたかったのか、その使い道(理由)も描かれないままだった。
つまり、やっぱり、言葉による描写こそ、このお話しを語るに欠かせないものではなかったのか...。

このように、このお話しを映像で見せる難しさがあるのも確かだけど、それとは別に驚きと楽しみも存在する。それは意外性に満ちた二人の俳優のキャスティング。
まず、落ちぶれた香水調合師バルディーニを演じるのは、なんとダスティ・ホフマン! これには本当に驚いた。頼りなく情けなく、それでいて目先の利にのみハナが効く。そんな小太りのおっさんがダスティ・ホフマンだとはしばらく気が付かなかった。
そして、ヒロインのローラ(レイチェル・ハード=ウッド)の父親役には、あのアラン・リックマンが登場。この役は彼にぴったりすぎて、全く違和感がなかった。今ではズネイプ先生のイメージが強いけど、やっぱりいいねぇ。
この二人がぴりっと脇を固めて、ローラの美しさにも目を見張る。レイチェル・ハード=ウッドはこの映画を撮ったときには15歳だそうだから、恐れ入ります、ハイ。また、一瞬、移民の民かと思わせる風貌のグルヌイユ(ベン・ウィショー)も物語りが進むたびに、それらしくなってくるから不思議でした。彼の狂気宿る瞳はなかなかのもの。レイチェル・ハード=ウッドとベン・ウィショーは忘れずに今後に注目していきたいですね。

最後にもう一つの理由。この映画のテーマは何であったのか。製作者が観客に伝えたかったのは何なのか。それがわからなかったし、ボクにはさっぱり伝わって来なかった。
つまり、確かに物語りは目の前で展開され、ある意味圧倒された。しかし、それだけ。う〜、もったいない!

ご覧になるかどうかはご自身で判断してください。もっとも、例によって紹介が遅くなったので、メジャー劇場での公開は終了しています。
また、原作を読むのが先か、映画が先かも難しいけれど、ボクとしては原作を先に読んで、自身のイメージを醸成する方が楽しいと思います。はい。

おしまい。