愛さずにいられない

上海のアンバランスさは...



  

妙な組合せ。 香港と台湾の俳優を使い、舞台を上海に設定し普通話のドラマを撮る。観ていて不思議な気がする。それはともかく、普通の神経をしている人にはちょっと理解し難いお話しが展開される。
正式に結婚して子供もいる主婦。実に、何のためらいもなく永年自分の髪を手入れしてくれていた理髪店の坊やとの恋に溺れていくさまを何のためらいもなく描いている。ある意味、ここまで開き直れれば立派。驚きやあざけりなどは超越した、一種独特の雰囲気を醸し出している(ような気がする)。
ただ、常識とか良識という“呪縛”に縛られることなく、あるがままを描けるのは“魅力”であるわけだ。

「ウォ・アイ・ニー」「深海 Blue Cha-Cha」など、ある意味“男性依存症”の女性を描いていた中華圏の作品が続いていた中では、異色の自立型(奔放型?)のお話しが描かれる。いやいや、チャンツィーの「ジャスミンの花開く」の一代記版と言えなくもないのかな?

上海。
その界隈で一番と言われた美女。彼女がいつもヘアスタイルを整えるのは国営の理髪店。しかし、この理髪店でチーフを務める阿華(ウォレス・フォ)は、絶妙な技術の持ち主。阿華が奏でるエニー(ロサムンド・クワン)の髪型は、10年前には上海中の誰もが真似をした最新のモードだった...。

どうだろう、ボクにはこの映画で伝えたいエニーの気持ち。残念ながらあまり理解出来なかったような気がする。ここで描かれている世界は、あくまでもエニーの視線から見た、女からの世界のように思えたからかな。それとも、ボク自身が旧守的な発想しか受け入れられない神経の持ち主だからなのかもしれない。
そんなボクは考える。「結局、この映画が伝えたかった(描きたかった)ものは何だったのだろうか?」と。ボクにはこの映画の本質が理解出来なかったのかもしれない。

結局、阿華はエニーを選ばない。その結論で物語りが終らないところが、実はこのお話しのミソであったのかもしれない。そして、エニーの“自立した女”こそが、このお話しの本質であり、現在の中国(上海?)で理想とされる姿なのかもしれないな。
だとしたら、エニーから捨てられて(?)しまう、夫と娘はいったいどうしたらいいのだろう? そのへんに“スッキリしない感”が残るのでしょう。きっと。
それにしても、フランシス・ンは出色の演技。存在感がないようで、実は凄く難しい役どころを見事に演じていますね。同じアパートに住むサキスフォンのおっちゃんも、あれはあれでいい味出してます。はい。

テーマそのものは、ボクの意には沿わないものの、深く考えず、さらっと観るのであれば、現在の上海が抱える妙なアンバランスさ(歪み?)が随所に背景として描かれていて、それはそれで、なかなか興味深いと思います。
上海が舞台で、セリフも普通話なので、一応“大陸もの”として分類するけれど、実際は台湾資本の作品なのかもしれませんね。

再見!