やわらかい生活

「Love KAMATA」見てみたいな...。



  

いわゆる「ゆるい」映画。
主人公の橘優子(ボクのお気に入りの寺島しのぶ)。35歳。独身。何をしているのかは不明。いや、そんなの関係ない。名前、年齢や職業などはこのお話しにおいては単なる記号にしか過ぎない。
そんな記号を一生懸命説明しても仕方ないから、ゆるいままでいいんだ。きっと。

この映画を観ながらぼんやりと考えていたのは、もう、生きていくことに必死さは必要ではなく、今の日本では何とかなる。そんな前提が成り立つ。どんなふうに生きるのか、何をもって幸せと定義するのか。それとも、そもそも生きていく意味などあるのか...。
生きていこうという姿に感動するお話しもあれば、毎日の生活のすぐ隣には死がないのに、その死を身近にたぐりよせようと必死になっているというお話しもある。映画は世情を映す鏡であるのは、ホントなんだねぇ。

ワケがわからない人ばかり出てくる。
合意の上で痴漢行為を楽しむ妖しいおっさん(田口トモロヲ)。タイヤの遊具に憧れる優しいヤクザ(妻夫木聡)。大学の同級生で区議会議員(松岡俊介)。そして九州から突然やってくる従兄弟(豊川悦司)。
みんなワケがわからないけど、ワケがわからないままではなく、ちゃんとしているときもある。その落差がこのお話しのミソ。

最近、いろいろ考えることがあって、そのことを念頭にしてこの映画を思い出してみる。
すると、ワケがわからないことに一生懸命になって息抜きすることは確かに大切なんだ。でも、ふと自分を振り返ってみて、ワケがわからん時とちゃんとしている時の落差(ギャップ)に疑問を感じたり、自分の力だけでそのギャップを踏み越えられなくなった時。人間は心の均衡を失ってしまうのではないでしょうか? 難しいことは良くわからないけど。
生きていくのは難しくない、もっと我が儘に生きてもいいんじゃない。優子みたいに。

あぁ、ボクにもこんな従兄弟がいればいいな。突然押しかけられても困るけど、でも一方的に甘えてみたいような気もする。
実際の生活。それは記号に囲まれて、雑事に追い回されてこんな象徴的な出来事に囲まれる毎日ではない。でも、せめて映画の中では何もかも忘れてみたい。

実は、メッセージ色は強くない。そんな意味でも「ゆるい」のかな。
でも、わかる人にはこのお話しが持つメッセージがビンビンと心に伝わってくるのかもしれません。

おしまい。