きみに読む物語

恋人よ帰れ、我が胸に



  

最初からこの映画は観るつもりだったから、余分な情報は出来るだけ遮断していた。ポスターやチラシ、新聞に掲載される広告ですら目にしないように努力した。そしてようやく順番が回ってきたのは広島。全国ネットで公開される作品はこんなときにこそ便利。
そこまで努力をする意味があったかどうかはわからないけれど、ほぼ白紙の状態で観ることが出来たのはいいことだったと思います。

恋愛モノの作品は、その映画を観ながら、観る側が、どれだけ主人公に同化して夢を見ることが出来るかにかかっていると思う。自分自身が主人公になりきって、泣き笑い、喜び悲しむ。そしてもちろん、恋もして、辛い別れも経験する。
その点、この映画は、ある意味わけがわからないまま始まってしまう。
誰が主人公なのか、ボクは誰に感情移入をしてこの映画を観始めればいいのか、それがわからない。頭の中で「?」が点滅したまま。そして、いきなり画面は何十年も前のある地点に飛んでいく...。

飛んでいった先が1940年であることは、最初はまるで意味が無い。その数字の意味はとりあえず置いておいて、目の前で繰り広げられる典型的なボーイ・ミーツ・ガールのお話しに目を奪われる。アリー(レイチェル・マクアダムス)とノア(ライアン・ゴズリンズ))の若い二人は出会い、互いに惹かれる。二人の間に横たわるのが、あまりにも違うお互いが置かれた境遇。しかし、若い二人には身分の差など無いのに等しいと思っていた。
その点、大人はスマート、いやある意味打算的。特にアリーの母親はなんと現実的な視線の持ち主なんでしょう。かわいい娘が一夏の恋のために不幸せになることに耐えられない。長い目で見たときに「幸せ」になるのは、どちらなのかをわからせようとする。そのために、セメント工場(?)にまで、娘を連れて行くのは、どうだかなとも思うけど...。
ほぼ強制なんだけれど「結論は自分で出しなさいね」というあくまでも本人の意志を尊重しようとするスタンスは、米国的だなと思いました(ノアの手紙を握りつぶしていたと知るまでは...)。

しかし、幾ら若くても、たとえ心は一つのつもりでも、物理的に離れてしまえばいつしかバラバラになってしまうのが世の常なのか...。
アリーは都会での楽しいキャンパスライフを過ごすうちにノアことは忘れていってしまう。まさしく、あれは“一夏の恋”だったわけだ(手紙が届かないのであれば、自分から一通ぐらいは出せよな!)。
そして、ボランティアで通っていた病院に入院していた傷病兵ロンと出会う。彼はノアとは違った。ロンはリッチな若手弁護士。彼が退院し除隊になると二人はたちまち恋に落ち、そして婚約。アリーは両親や周囲からの祝福を受け幸せの絶頂。ふと手にした新聞を見てしまうまでは...。

本当の恋。本当の愛とは何か?
そんなこと誰にもわからないし、答えはすぐに出ない。もちろん、ボクにもわからない。
人生なんて悲しいものだ。自分が愛や恋をして闘っているときにはその価値に気が付かず、長い時間を経てから振り返ったとき、やとそれが本当の愛だった、或いは気の迷いだったとわかる。でも、それがわかったところで、もう一度やりなおす時間も気力も残されてはいない。
それなら、アリーやノアはなんと運が良くて幸せなんでしょう!

ボクは老人ではないけれど、もう若くもない。
アリーやノアよりも、アリーの両親のような発想に傾いているな。何もそれが悪いのではなく、純粋な思いや一途な思い、それに可能性に賭ける思い切りなどが、ボクからはすっかり失われているんだなと、ちびっと悲しくなってしまいました。

もちろん、いろんな考え方や感じ方があるのは承知していますが、このお話で一番幸せなのは、間違いなくジェームズ・ガーナー演じる読み聞かせの老人です。
だから、結局、この現代に生きるこの読人に感情移入してこの映画を観るのが「正解」なのでしょう(それは、凄く難しいことだけどね)。
そういう意味では、本当は、もう少しお年を召した男性陣にこそご覧頂きたい作品なのかもしれませんね。
いや、いや、「自分もこの老人のようになりたい」という意味ではありませんよ。

おしまい。