真珠の耳飾の少女

ちびっと、うっとり


  

このところ雨がよく降る。まさかとは思うけど、5月中に梅雨入りしたりはせえへんやろな(ちびっと心配)。
結局、何やかんやといい訳をして、鈴鹿の雨乞岳も六甲も歩いていない。もちろん天気のせいもあるけど、あかんなぁ。

そんなことを思いながら、雨の夕方。職場から新梅田シティまで歩く。この日は「真珠の耳飾の少女」。
数年前に天王寺公園の大阪市立美術館で「フェルメールとその時代」というタイトルの美術展が開かれていた。その時の目玉が、フェルメールの「青いターバンの少女」という油彩。
青いターバンを頭に巻いた少女が、椅子に腰掛けこちらを振り向いている構図の絵。ターバンの青と、少女のくりっとした瞳、僅かに開いた唇が印象に残る作品だった。でも残念ながら、最も印象に残っているのは、入場制限が必要なほど押し掛けた入館者の行列だったけどね(もう、ウンザリした!)。
その「青いターバンの少女」という絵の別名が「真珠の耳飾の少女」だとは、この映画を知るまで知らなかった。そうか、この絵は日本だけでなく、世界的に著名で人気があるのか(知らなかった!)、と驚いた(ほんとに、何にも知らない)。

主演は先日「ロスト・イン・トランスレーション」でお目にかかったスカーレット・ヨハンソン。この女優さんも売れっ子なんですね。別に凄い別嬪さんというわけでもない。だけど、妙に印象というか余韻が尾を引く方です。
舞台は、1660年代のオランダ。日本では江戸時代の初期・四代将軍家綱の治世。
この映画で描かれている街角の風景や時代考証が、正確かどうかは確かめるすべはない。でも、背景などはCGを存分に使ってあるようだ。飲み水は井戸を汲み上げ、その他の生活用水は家の前を流れる運河を流れる水を使うのには驚いた。

お話しは、貧しい家の少女、グリート(スカーレット・ヨハンソン)がフェルメール家に奉公に出るところから始る。
このフェルメール家がなかなか曲者揃いで面白い。
まず、家長は画家フェルメールの義母。彼女がこの家の財布を握っている(彼女の服装や姿は、スター・ウォーズを連想させるねぇ)。そして奥さん、この人もなかなか面白い。そして彼自身と、6人の子供たち。
義母はお金のことにしか興味がない。収入を得る唯一の方法である娘婿のフェルメールのお尻を叩くこと、そして彼の筆が気持ちよく進むように少々のことには目をつぶっている。妻カタリーナは、フェルメールの愛情を自分につなぎとめておくことにしか興味がなく、旦那の描く絵や芸術そのものにはまるで興味がない。
フェルメールがくつろげるのは、居間でも寝室でもなく、家の中ではただ一つアトリエだけだ。
この一家は歪(ひずん)で、軋(きし)み始めている。
ただ、今のこの家の生活を守るために、三人の大人たちが、各々の役目をしっかり自覚して演じている。これって見ていて「凄い!」と唸ってしまう。守るべきなのは個人の尊厳ではなく、家の名声や体裁。そして、収入なのだ。これはひと昔の日本と一緒か。

このフェルメール家の複雑な人間模様と、「真珠の耳飾の少女」という絵が描かれるまでが上手に絡めら、物語りは丁寧に綴られている。
もちろん、画家フェルメールがどんな人物であったのか、そして「真珠の耳飾の少女」という絵の背景についても、ほんの少しくらいはか伝聞が残っていたかもしれない。でも、この映画で語られるストーリーは、おそらくほとんどがフィクションだろう。現在に残された一枚の絵から、ここまで物語りを膨らます想像力、手腕には驚くばかり、これはまさしく脱帽。

グリードとフェルメールとの関係が主従であることはもちろんなんだけど、二人はプラトニックな(いやストイックな?)擬似恋愛関係にある。いや、本当はただ一人フェルメールの絵画を理解している“共同制作者”(?)なのかもしれない。
ある日、グリードはアトリエの窓ガラスを拭こうかどうしようか迷う。ガラスを磨いてしまったら、アトリエに入る光線の加減が変わってしまう、それはすなわちフェルメールの創作活動に支障をきたす。そこで彼女はカタリーナに尋ねるのだが、奥様はその質問の意味すら「理解できない」。
また別の日。グリードはアトリエの掃除の最中にあることをひらめく。そして実行に移す。翌日、アトリエに入った彼女は、自分のひらめきをフェルメールが理解し、受け入れてくれたのを知る。
そう、彼女こそフェルメールの芸術の第一の理解者だった。

グリードは、同僚のおばさんから、以前フェルメールのモデルになった小間遣いの少女が辿った悲しい結末を聞かされている。またフェルメール自身も、自分の奥さんの嫉妬深く激しい気性を知っている。
それなのに(それが故?)、この二人はお互いが心の中で、主従や師弟関係、画家とモデルという関係ではなく、男女として惹かれあっている。しかも強烈にだ。
触れてしまえば、一瞬にしてその一線を超えてしまいそうなのに、二人とも超えそうで超えない、いったい何がこの二人の抑止力となり、ストイックにさせていたのだろう?
二人で屋根裏部屋にいる、仲良く隣同士に腰をかけ、絵の具に使う顔料を調合している(そうか、絵の具はチューブに入っているものだと思っていたけれど、ほんとうはこうやって作るのか)。一瞬、二人の手が触れ合う。グリードの手がフェルメールの手のひらに収まる。走る緊張感。心のなかで見つめあう二人は...。

蝋燭の炎が燃え上がる部屋。向かい合って座る二人が語るわけでもなく、ニードルの先端をみつめる。このピアスの穴をあけるシーンは、即物的なシーンを再現する下手な恋愛映画をはるかにしのぐエロチックなシーンなのかもしれない。グリードが唇をなめるシーンも、どきっとしてしまう。
この二人の微妙な心の関係が、後世にも残った絵を完成させたのか。

が、中世(?)のオランダの雰囲気を上手く画面に再現し、甘美なプラトニックな恋愛が展開される割りには、見るものの心に響いてくるものがないのも、また事実。
着想も、設定も、俳優もそう悪くない(いや、素晴らしい)。でも、語りと展開にパンチが欠ける。スピード感やハラハラ、ドキドキするようなものもまるでない。
グリードは最初から最後まで引きっぱなしで、あまりにも心の傾きを表に出さないし、フェルメールも気を惹かれながらも男性的というか、暴力的というか、そんな男を感じさせる部分を出さない(これなら、パトロンの好色オヤジの方が、よっぽど人間的にさえ見えてしまう)。
明らかに、この二人の恋は成就どころか、可能性すら感じさせない。全く姿を見せない、淡い幻に対して観客は心がときめかないものなのだ。特に全く持って不毛な“擬似恋愛”にはね。
だから、奥さんのグリードに対する嫉妬が、滑稽で悲しく見えてしまう。
崇高さは認めるが、もう少し世俗的に下世話な展開を入れた方が、いいかもね。本来はそんな部分のために肉屋の息子、好色なパトロン、そしてフェルメールの長女が配してあったと思うんだけど、結局編集部分でほとんど割愛されたんだろう。この三人は、完成した映画の中ではあまりにも中途半端な位置付けだ。

ラストも惜しい。
グリードに真珠の耳飾を送ったフェルメール。それはどういう意思表示だったのだろうか?

もうしばらくは、シネ・リーブル梅田で上映していると思います。お時間があればどうぞ。
う〜ん。ちょっと「うっとり」したい人向けなのかもしれませんょ。

おしまい。