「めぐりあう時間たち」

こんな地味な作品とは...


  

5月もそろそろ終わり。季節はもう初夏の趣だ。
それにしても今年は天気の巡り合わせが良くない。決して雨が降る日が多いとは思わないけれど、その雨の日が週末にぶつかることが多い(ような気がする)。仕事があるウィークディに絶好の好天、その青空を恨めしそうに指をくわえて見上げ、週末にはどこからか雲がやってきて雨を降らす。もう、勘弁してよ!

今回観たのは「めぐりあう時間たち」。今年のアカデミー賞でニコール・キッドマンが主演女優賞を射止めた作品ですね。
金曜日の18:40からの回を梅田ブルク7で拝見しました。この日でちょうど公開7日目。週末だし一杯入っているかと思ったら、70名ほどの入り。ボクは指定された席ではなく、最上段の端っこに座りましたが、とても見やすくて気に入りました。でも、そうそうブルク7に来ることも無いからなぁ。

三人の女性が主人公。それぞれ異なる時代に異なる場所で生きている。その女性たちの一日を丁寧に描いている。そして、ほんの少しずつその女性たちは関係を持っている。ただし、その関連性は極めて希薄で、それぞれ独立した三人の女性の物語が同時並行で語られていく。
こう書くとなんだかかっこいい大河ドラマ風なのかもしれないけれど、ボクにはさっぱりわからなかった。このお話し、だからどうやねん、と思ってしまった。
こんな地味な作品でニコール・キッドマンはアカデミー賞を貰ってしまっていいのか?

1920年代。ニコール・キッドマンは英国の田舎で隠遁生活を営む女流作家・ヴァージニア・ウルフを演じる。映画の冒頭で彼女が破綻してしまうのをボクたちは知ることになる(あのシーンだけで彼女がニコール・キッドマンだとボクは気付かなかった)。彼女は情緒不安定で、刺激の多いロンドンでの生活を避けて、旦那と一緒にこの田舎に引っ越してきて療養生活を送っているのだ。
そして、現代のニューヨーク。中年のシングル・マザー、編集者・クラリッサ(メリル・ストリープ)は現在の友人でありかつての恋人だった知人の文学賞授賞パーティを開こうと奔走している。
1950年代のLA。一児にの良き母親であり、愛する主人を家で待つローラを演じるのはジュリアン・ムーア。彼女はこのまま全てを投げ捨ててしまいたいという願望を押さえきれずにいる。その理由は「ない」。ただ、なにもかもが嫌になっている。

そうだ、この映画には厭世観がどよよ〜んと漂っている。何のために生きているのか、生きている目的は? そんなことを感じさせる。主人公たちはその答えを求めてもがいているのではなく、ある種あきらめてしまっている。そんなどちらかというと退廃的なムードが画面一杯に漂う。う〜ん、これって観ていて疲れてしまう。
明確なストーリーがあるわけではなく、各人の一日を切り取ってきただけに余計にそう感じるんだろうな。

ちゅうわけで、あんまり楽しくない作品だった。
でも、そこそこ評価が高いのも事実ですので、興味のある方はどうぞご覧下さい。梅田地区では泉の広場上ルの梅田ピカデリーとブルク7で、もう暫く上映しているようです。

おしまい。