「小さな中国のお針子」

知識とは、新しい考えとは?


  

三月が逃げるように「去り」、四月が始まる。新しい年度のスタート。
それなのに、どうも浮かないのはボクだけだろうか?
早々に香港の大スター、レスリーチャンが亡くなったというニュースが飛び込んできた。「信じられない」。どうしてレスリーが死ななければならないんだ? しかも自殺だという。もう、ショックで膝が砕けそうだ。香港の芸能界でレスリーが占める割合が小さくないだけに、今後も心配。しかし、もうレスリーに会えないなんて...。
昼間にはアメリカンフットボールの社会人の老舗レナウンがチームを解散するというニュース。さらに学生フットボールの名物監督だったフェニックスの篠竹監督の勇退(解任?)も伝えられた。古くからのファンには懐かしいチームと監督が同時に表舞台から姿を消すのは何とも印象的だ。フットボール界も一つの時代が終わったんだなぁ。ちょっぴり淋しい。

さて、まだ三月の間に観てきた作品をご紹介します。大陸とフランスの合作「小さな中国のお針子」。この映画の原作は「バルザックと小さな中国のお針子」という中篇の小説。日本語訳版が昨年の今ごろ発売されました(すぐ買って読んだ)。小説の作者が映画の監督も務めるとういう珍しいケース。この人、今はフランスで生活しているそうです。

妙なことを感じた。
この映画、食事のシーンがほとんど無い(あることはあります)!
外国に出た中国人が撮る映画は生活感が希薄な作品が多い(その顕著な例が「西洋鏡」)。この映画もその例に漏れない。それはある意味西洋化された人間ににとって、大陸での生活のリアリティさはちょっと耐えられないからではないでしょうか。その気持ちはなんとなくボクにもわかる気がする。
西洋で暮らす人にとって、なんとなく恥ずかしい部分、綺麗ではない部分はなるべく描きたくない、そんな思いが強いんでしょうかね。貧しい食事に、食事の作法...。

監督=原作者だから、ある意味原作のテーストそのままに忠実(それも当然か)。繰り広げられる人間模様はもう何とも言えない。
文革の波を受けて成都から四川省の山奥に“下放”された知識階級に属する二十歳前の二人の学生マーとルオが主人公。この二人が荷物を持ち千段はあるという谷底からの石段を上がってくるシーンから始まる。これから二人が暮らす(再教育を受ける?)村は、近くの街まで「歩いて二日がかり」の距離。彼らを待つ村ではこの二人の手荷物を興味深げに点検する。
今まで時計が無く、日が昇って働き始め、暗くなって仕事を終える生活をしていた彼らに目覚し時計の存在は天変地異だ。またマーが持ってきたヴァイオリンが奏でる音色にも驚きの視線を向ける。

反革命分子を再教育する“下放”とは何なのか、この映画を観ると良くわかる。書物を読むなどのして革命を学ぶ座学などでは有り得ず、貧しい農村で肉体労働に従事しすることそのものが再教育。こうして中国は多くの知識人及びその卵を失ったんだなぁ。

さて、この作品で描かれているのは、人間の知識に対する欲求は、衣食住に劣らず激しいものということと、一度知識によって目覚めた欲求は二度と萎まないということでしょうか。
彼らが持ち込んだ料理レシピが書かれた印刷物(本か?)が、村長の手によって火にくべられてしまう。その様子を見守る二人の悲しそうな眼差しは、たかが料理の本と言うなかれ、いかに活字(知識?)に飢え本を大切に思っていたのかがわかるエピソードだ。
そして、この映画の象徴的存在が「お針子」。近くの村に住むこの地域で唯一の仕立て屋の孫娘。近郷の人々は服地を買い、この仕立て屋に頼んで服にしてもらうのだ。近郷をミシンとともに歩きまわる仕立て屋は人々にとっても大切な情報源の一つ。この翁とともに村々を巡る年頃の娘・お針子は若者にとって垂涎の的なのだ(しかも、四川省のこのあたりは有名な「美人の産地」らしい!)。
マーとルオはこの小さなお針子に惹かれる。お針子も垢抜けた若者に興味を持ち、いつしか言葉を交わすようになる。積極的なルオはこのお針子に変革を試みる。
すなわち、文字をの読み書きを教え、知識に対する目を開かせるのだ。

違う村に“下放”で送り込まれた若者から彼の隠し持っていた蔵書を頂戴し、それらを貪るように読む二人の姿は異様。「そこまでして...」と思ってしまうのはボクだけではないだろう。
そして、ルオは文字を教える傍らお針子にバルザックの「ボヴァリー夫人」を何日にも渡って読み聞かせる。それだけではなく、またこの村にやってきた仕立て屋の翁にも「岩窟王」を9夜に渡って語り聞かせもする。
そして、何もない村で暮らしていた無垢なお針子は、乾いたスポンジが水を吸い込むように、文字を覚え知識を蓄え、様々な外国の小説から新しい考え方を吸収していく。
この過程の中でお針子がどう変わっていくのか、ブラジャーを試作する一件だけで、彼女の心の中を覗けないのはちょっと語り足りないように思うけど、原作でもそうだから仕方ないか。でも、もう少し細かく表現しないと彼女が都会へ行ってしまうのは、あまりにも唐突すぎて理解に苦しむような...。

物語はいささか唐突な感じで終わりを迎える。
そして、場面はいきなり現代に切り替わってしまうのだ。余韻が全くないのが少し残念だけど、何かマーとルオの青春時代に見た「悪夢」を再現したような感じで、それはそれでいいか...。その悪夢に中で唯一のほろ苦いそれでいて甘美な想い出がこのお針子の存在だったのでしょうか? (彼女の現在の姿なんかが出てこなくて良かった)

ルオは初めて見る俳優。マーは「山の郵便配達」で息子役を演じた青年。お針子は「ふたりの人魚」で謎のメイメイを演じていた女優さん。マーは前作の方が良かったような気もしますが、メイメイはこの作品の方が断然いいですね。
主役の三名は今後大いに期待が持てそうです。

レスリーチャンの冥福を祈って...

おしまい。