「息子の部屋」

現実を受け入れる、それはそれで辛く切ない


  

死んでしまったらその人はそこでおしまいだ。いくら本人が無念だろうが、残念だろうが...。
でも、残された人たちは愛する人が死んでしまった後も生き続けて行かなければならない。死に向かい合った直後は気が動転していて葬儀や様々な出来事への対処で気付かないが、これらの混乱が収まり、普通の生活に戻ろうとしたときに改めて失ったものの大きさに気が付く、精神的にも物理的にもだ。
そして、残された者たちは、その死を直視し、受け入れることによって立ち直って行かなければならない、そんなことを教えてくれる映画なのです。

ジョバンニは美しい奥さんと一女一男の子供に囲まれ幸せな生活を送っている。開業医としての精神分析医の仕事も順調だ。
息子が学校の備品を盗んだという事件が起こした波紋も家族の固い絆にはさざ波程度の影響も与えない。
ある休日の午前中、ジョバンニは息子とこれからジョギングへ行こうと約束する。しかし、そこへ患者から急な往診を依頼する電話が入り、ジョバンニは息子との約束をキャンセルして郊外にある患者の家に往診へ出掛ける。ところがこの往診に行っている間に息子は友人と海へダイビングへ出掛け事故に遭い、そのまま帰らぬ人になってしまったのだ。

悲嘆にくれる奥さんや娘を慰め、葬儀も済ませ、娘や友人が開いてくれた鎮魂のミサにも出席して息子の死を吹っ切ったつもりのジョバンニだったが、診療を再開しても仕事に熱が入らない。息子の死に対する自責の念がふつふつとわきあがってくるのだ。もし、あの日、往診を断っていたら、息子は自分と一緒に走っていて海には行かなかったのではないか、と後悔するのだ。
娘も鬱陶しいと言って、今まで付き合っていたボーイフレンドと別れてしまい、バスケットボールの選手権では試合中に取っ組み合いの喧嘩をしてしまい出場停止になる。心の中で弟の死がわだかまりとして残っていたのだ。
奥さんも何かのきっかけで息子のことを思い出すと涙に暮れる日々だ。
固い絆で結ばれていた家族だったのに、息子の死をきっかけに一気に求心力を失っていく。

そんなある日、息子宛に一通の手紙が届く。差出人は息子のガールフレンド。
まだまだ子供だと思っていた息子にガールフレンドがいたなんて、家族は一様に驚く。そして、今まで家族が知らなかった自分の世界を持つまでに息子が成長していたことをちょっぴり誇りに思う。
ジョバンニは彼女に息子の死を知らせる手紙を書こうとする。でも、途中まで書きかけては何度も、何度も中断してしまう。それはジョバンニ自身が息子の死を直視し、受け入れていないから。そして、自分を責めることによって、息子が帰ってくるのではないかと現実から逃避している。息子の死という事実を認めた手紙を書く行為によって、息子の死を認めてしまう自分が怖かったのだ。

この手紙とガールフレンドの登場によってこの一家はようやく、愛する息子の死を受け入れ、立ち直っていく。
そのプロセスがすごく丁寧に描かれています。
失ったものが大きければ大きいほど心に開く穴も大きい。でも残された人たちはその穴を埋め、生き続けなければならない。何とも悲しくてやるせないが、それが生活であり人生でもあるのですね。

劇的な演出があって、涙がぼろぼろ止まらない、っていう作品ではありません。でも、映画館を出て街を歩いているとき、帰りの電車の椅子に腰掛けたとき、そんな瞬間まで余韻が長く残り、ふと感動している自分に気が付く。そんな映画です。
昨年のカンヌ映画祭でバロン・ドール(グランプリ)受賞作。ちなみに一昨年のバロン・ドールは「あの」ダンサー・イン・ザ・ダーク。
チャンスがあれば是非ご覧下さい(今年は出だしから調子いいぞ!)。

梅田では泉の広場上がるの梅田ピカデリーで上映中。ボクは封切り初日の朝10:00の回を渋谷シネ・パレスで観ました。ここもなかなか上品な劇場。とても映画館とは思えないビルにひっそりとあります。朝が早かったからか4〜5分ほどの入り。割と年輩のお客さんが多かったように見えました。
次回は同じく渋谷で観た中国大陸の映画「プラットホーム」をご紹介します。

おしまい。