マイ・ブルーベリー・ナイツ

香港の面影を探してしまうのは...



  

何でもそうだけど、特に映画に関しての文章を書くときには“鮮度”が重要。その映画を拝見して、時間が経過すればするほど、鮮度が落ちる。
すなわち、記憶はどんどん欠落していく。ストーリーではなく(どんなお話しなのかは、調べる手段は幾らでもある)、そのとき自分が何を感じたのか、どう考えたのか、どんなふうに感動したのか、そんなことを簡単に忘れてしまう。
また“旬”というものも存在する。「もう一度、観たい」と思うことは滅多にないけれど、拙文を読んでくださった方が「観たい!」と思っても、上映(公開)は終了しているし、DVDやビデオの発売はまだ先で、どうしようもないこともある。また、話題作であればあるほど、巷に流布する情報に接してしまい、自分自身の判断が鈍ってしまうことも、珍しくない。
まぁ、何はともあれ、難しい。いや、溜めずに書いていかないといけない。

今回紹介する「マイ・ブルーベリー・ナイツ」。オォンカーワァイ監督の作品。香港ではなく米国の作品であり、出てくる役者さんも欧米の方。アジア臭はない。
でありながら、この映画を観る人は何を期待して、どういうふうに構えて、スクリーンと対峙するのだろう?
そういうボクも、実はこの映画の中に、どこかで香港の街角を、香港の面影を、期待していたのかもしれない...。
そう考えると、この映画の生い立ちというかプロフィールはいささか不幸なのかもしれない。

主演は割りと好きなジュード・ロウ。そしてノラ・ジョーンズ。
お話しは、一風変わっている。
ニューヨークにいるジュード・ロウはどこにも行かないし、何もしない。 彼の店に訪れた訳ありのノラ・ジョーンズだけが、合衆国をどんどん旅する。>

そこに一体何を期待するというのだ。

香港は不思議な街。多くの人が訪れては、去っていく。だけど、実は、香港から離れられない、香港以外には行けない人も、数多くいる。いわば、香港は“上澄み”だけがどんどん入れ替わるのに対し、その深層は全く変化しない街。
それに対して、ニューヨークはどうなんだろう? いや、ニューヨークだけではないのかもしれない、合衆国はどうなんだろう?
結局は一緒なのかもしれない。ニューヨークや合衆国には、チャンスを求めて実に多くの人々が流入してくる。その反面、何かの理由でこの街やこの国から出て行く人も少なくない。でも、きっとそれは“来た人が去っていく”のだけかもしれない。

このお話しの不親切なところは、今彼女がどこにいるのか、そこは前にいた街からどれだけ離れていて、(ニューヨークという街からではなく)ジュード・ロウからどれほど遠いのかが、日本人のボクにはさっぱりわからないところ。
そして、彼女が何を求めているのかさっぱり理解できない。

こんな錯覚に陥った「この映画の監督はデビッド・リンチだたかな?」っと。

おしまい。