「ドリアン・ドリアン」

香港と大陸の新しい関係


  

ちょっと難しい映画だ。

香港という猥雑な都市と牡丹江という中国東北部の都市を結ぶのは、飛行機や汽車ではなく、小包で送られてきたドリアンという果実だ。
ドリアンは見た目はハリネズミのようで、触ると刺が痛い。臭いもなんともいえない悪臭。いくら美味しいと言われても、食べるには度胸がいる。でも思い切って食べてみると、外見に似合わず意外といける。
香港はドリアンのようだ、とフルーツ・チャンは言いたかったのだろうか。

ドリアンをイェンに送ってきたのは、旺角の裏町で皿を洗う少女ファン。
イェンはたった一人で故郷から三ヶ月の観光ビザで香港にやってきた若い女だ。彼女もこの旺角の裏町でうごめいている人々のうちの一人。彼女は身体を売ってビザが許す限り儲けようとがんばっているのだ。
映画では普通話と広東語が飛び交い、今の香港をある意味象徴している。また、旺角の裏町にいるのは中国人だけではない。インド人か東南アジアの人かはわからないがそんな人も生活しているのだ。そんなこともさりげなく描かれている。
イェンを演じるチン・ハイルーはなかなかいいです。ファンは前作の「リトル・チュン」と同じような役ですね(ひょっとして、家族も同じ?)。

この映画は香港と中国大陸の結びつきの一つを端的に表現しているのかもしれない。
イェンの商売が合法か非合法かを問うわけではないし、その生き方を否定しているわけでもない。彼女に罪の意識はないし、後ろめたさもない(少なくとも香港にいる間は)。
彼女の故郷では「南に行く」と言うことは、すなわち「成功する」と同意語であり「成功する」と言うのは「金を儲けた」と言う意味だ。
では、誰でも「南に行く」のかと言うと、決してそうではないらしい。「南に行きたい」とイェンに言ってくるのは彼女の若い従姉妹だけだ。一緒に連れて行ってくれという若い従姉妹に言葉に、イェンは答えられない。言いよどんでしまうのだ。従姉妹にしても、まさかイェンが身体を張ってカネを儲けてきたとは思っていないのだろう(彼女は突然、一人シンセンへ行ってしまう)。

イェンは確かに、牡丹江にいたのでは一生手にすることが出来ないような大金を香港で稼いできた。でも、彼女は結局、そのお金をどのように使えばいいのかわからない。
もう二度とあんな生活は嫌だと思う反面、一度味わったドリアンの味が忘れられないように、香港という街が忘れられないのだ。アパートと食堂とホテルを行き来しただけで、観光地に行ったわけでもなんでもないのに。

香港の影の部分を切り出し、この影の部分に群がる人々をスケッチした佳作。香港と牡丹江の街の対比がなんとも言えません。
この監督(フルーツ・チャン)が描く香港は、いつも観光客が知らない香港。そして今回もそうだ。今までは、香港の人々(しかも底辺部分にいる人々)にとっての中国返還が大きなテーマだった。
中国の一部となった香港の次のテーマは、香港と中国の新しい関係を描くことのようです。

後半の牡丹江の部分がちょっと饒舌すぎたかな。この部分は、まるで先日観た「プラットフォーム」の焼き直しを観ているようでした。
今週一杯はレイトショーで上映中です。会場は新梅田シティのガーデンシネマ。香港映画で木曜の夜に20名ほどの動員ならこんなものでしょうか。興味のある方はどうぞ。

おしまい。