「食う寝る坐る 永平寺修行記」

野々村馨 新潮文庫 629円


  

映画が始まるまでの時間つぶしのつもりで手に取った本だが、たった1日で読了してしまった。
三つの楽しみがある本だ。
一つ目は、宗教というものは何もオウムだけでなく750余年の歴史を持つ曹洞宗であってもその程度の違いこそあれ「洗脳」なんだということ。
二つ目は、「出家」するということ、すなわち僧門に身を置き禅を極める、あるいは悟りを開くというのはどういうことなのかということ。
そして三つ目は、曹洞宗の総本山・永平寺での日常生活を興味深く知ることができたとこと。

ごく普通のサラリーマンをしていた筆者が、自分自身に閉塞感を覚え、ほんの軽い気持ちで「出家」する。
身を寄せる先は福井県にある永平寺。
この永平寺で筆者が体験した一年間を平易な文章で日記のように綴られている。

お寺での作法の右も左もわからない魯山(筆者)が雲水として一人前になっていく様子が手に取るようにわかる。
まず山門に着き、草鞋を脱ぐことを許され、同時に入山した仲間たちと正式に雲水として認められるまでの数カ月が圧倒的な面白さだ。彼等の指導係の古参の雲水から徹底的にここでの作法を叩き込まれる様子はまったく「洗脳」に他ならない。山のように作法や手順を教えられ、必死になってそれをこなす新参たちは、立ち止まって考えるヒマすらない。作法や順序を間違えれば罵詈雑言とともにゲンコツやケリが飛んでくるのだ。
しかし、これらの行為によって新参は修行に向かう心構えを形成することができたのだ。

<曹洞宗の開祖道元は、禅の修行道場で行往坐臥すべてに作法を決め、その作法を厳格に守り実践していくことが修行であり、そこの現れる一挙手一投足がすなわち仏法に他ならないという。>
起きてから寝るまで(それどころか就寝中まで)すべての作法と手順が厳格に決められており、そこから外れることは許されない。
素人のボクは禅とはすなわち座禅で、静かな空間で壁に向かって坐り、瞑想に耽ることだと思っていたが、それは表面しか見ていなかった者が思うことで、本来は、禅の道場にいること、その存在そのものが禅なのだ(そうだ)。

しかし、立ち止まって考えたり、振り返る余裕すらなかったはず魯山も何かの拍子に考えてしまうことがある。そして悩むのだ。しかし、永平寺が魯山に与えてくれたものはそんな悩みすら簡単に吹き飛ばしてくれるものだと読み進むうちにわかってくる。

それにしてもこの魯山という人はなんと意思が堅固であり、かつ感受性の豊かな人なんだろう。感心せずにはいられない。
思いつき同然で出家してみると、同時に上山(入門)した新到はそのほとんどがお寺の子弟であり、家のお寺を継ぐためにはこの修行は避けては通れない。しかし魯山は別に途中で逃げ出しても何のお咎めもないのに挫けそうになると「お前は好きでここに来たはずじゃないか、こんなことで弱音をはき、さぼっていたら、何のために来たのかわからないぞ」と自分自身を励ます。
読経の音色の崇高さに心酔し、ふと背に当たる日差しの暖かさに感動する。また、階段を上がっていくごとに窓の外に見える紅葉の朱さの違いに高浜虚子の句を思い出す。

久しぶりにすがすがしい気分になりました。
しかし、一昨年の8月に文庫かされたこの本が、どうしてこの時期にあの九条の書店で平積みされていたのか、そしてたまたまその店に入りこの本を目にして買ってしまった。なんか不思議な結びつきを感じました。一寸出家してみようかな。

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