「壬生義士伝」

浅田次郎 文春文庫 (上下巻とも590円)


  

おもさげなござんす。

先日、同名の映画を観て、原作を読むことにする。ボクにはありがちなパターン。
映画では主役の吉村貫一郎を中井貴一が好演していた。
映画を観てから本を読むと、イメージが映画以上には決して膨らまなかったり、固定されてしまったりという大きな欠点がある。だけれども、映画を観ただけでは不可解であった事柄などが原作を読むことによって氷解したり、より一層理解が深まったりするいい点があるのも確かだ。
原作を先に読んでから映像(映画やテレビ)を見るのもつらい部分がある、自分と大きく解釈が異なっていたり、自分が思い描いていた登場人物と演じる役者さんとのギャップが大きかったりすると、つらさを通り越して苦しくなったり失望したり、挙句には、結局映像は見ないことになってしまうこともある。
そして、原作のある映画はある意味エッセンスに過ぎない。原作を一言一句違えずに映像化しているわけではない。
この「壬生義士伝」。ほんとに良く出来ている小説なのだ。

幕末に京の都を主な舞台にして暴れまわった新撰組。 新撰組といえば、近藤勇を筆頭に土方歳三、沖田総司などが有名どころで誰でも知っている。だがこの小説の主人公はそんな有名人ではなく、単なる平隊員・吉村貫一郎。 この吉村貫一郎は岩手の南部藩を脱藩して新撰組に加わった冴えない風貌の中年侍。実際に新撰組にいたらしいが、詳しいことは何も記されていないいい意味では謎の、正直に言えばその他大勢の隊員だったらしい。
史実にほとんど残っていないだけに筆者の想像力と筆によって膨らますだけ膨らまされた吉村貫一郎を主役に据え、この物語りは始まる。
このお話しの上手さは、幾人かの回想を重ね合わせて吉村貫一郎という侍の人物像を作り上げているところだろう。各人の証言は、時期や場所も違えば、密度や温度も微妙に異なる。それでいながら貫一郎の人物像は全くぶれない。それどころか、より強固になっていく。
この巧みな手法にずっぽりはまってページを繰る手が止まらなくなる。

結局、男は何のために働き、何のために死ぬのか。
それは自分のためにでも、会社のためにでも、組織のためにでもない。
自分が愛する妻や子のためになのだ。
そんな、一見当たり前のようで、でも忘れ去られがちなことを、時代設定や背景を巧みに生かして読む者の心に繰り返し切々と訴える。実直で素直、それでいて不器用な貫一郎の生き方に感動してしまうのだ。

読者はこの小説の冒頭で吉村貫一郎が破綻してしまっているのを知っている。そして、読み進めるうちに、知らず知らずにしてどうして彼が破綻してしまったのか、その訳を探しにこの大枚の小説の海に船出させられてしまう。
気が付くと、貫一郎にもう二度と盛岡の土を踏ませること無く、彼を飲み込んでしまう時代の荒波を目の当たりにして、目頭を熱くしつつ声にならない大きなため息をついてしまうのだ。

振り返ってみると我が身のなんと軽いことか。武士としてのしがらみや、乗り越えられない身分の差など貫一郎をがんじがらめに縛っていた重石など自分には無いに等しい。
なんだかんだと言い訳をするのは止そう。もう一度自分を見つめなおして頑張って生きていこう、そんな気にさせてくれるお話しです。

映画よりも数十倍いいお話しです(でも、映画もいい)。
特に嘉一郎と次郎衛の手紙には胸を熱くさせられます。
おすすめ!

おしまい