ひゃくはち

煩悩の数も、ボールの縫い目の数も



  

甲子園球児だって、一日中野球だけしているわけではない。当たり前のことだけど、野球以外にもいろいろやって、いろいろ考えているんだな。そんなある意味人間臭くて、スポ根ものではない高校野球を題材にしたお話し。
先日、同じタイトルの原作を読んだ(「ひゃくはち」 早見和真 集英社 ISBN:9784087712339)。映画が公開されるのを知ってあわてて読んだ。設定の骨子は同じだけど、細かい部分やエピソードは違う。最も大きなポイントも書分けてあって、エンディングは異なる。ボクは原作よりも、映画でのお話しの方がいいかな(もちろん、その人の好みにもよるだろうけど)。

神奈川県にある野球の名門・京浜高校。ここに一般入試で入った野球部員二人が主人公。
この二人が甲子園出場に向けて、如何に頑張ったのかが語られているのではない。甲子園へ行くために、試合に出てボールを投げて打つのは、特待生で入ったエリートの部員たち。青野とノブは歯を喰いしばって練習に付いていき、県予選では20名まで登録されるベンチ入りのメンバーにどうやってもぐりこむかに心血を注ぐわけだ。
合宿所の近所にある“ひゃくはち神社”の境内で、ノートを片手にベンチ入り出来るメンバーを大真面目に予想していくシーン。原作でも映画でも象徴的なシーン。原作よりも、部員は真面目に野球に取組んでいるし、あんまり遊ばない。タバコは吸うけどね。

普通の高校生が名門校でどんなに練習して努力をしても、レギュラーで試合に出られるわけはない。天才たちとは超えられない一線が用意されている。速く球を投げる、遠くへ飛ばす。これは天性のものであって、努力だけでは手に入らない。凡人が泥だらけになってのたうちまわって辿り着けるのは17番目か18番目か。それとも甲子園では登録されない19番目か20番目なのだ。
ここではその差を嘆いている部分はない。その越えようがない才能の差。それは現実として受け入れられている。だからこそ、補欠でもいい、自分達の手が届く範囲で頑張るのだ。
大勢の部員たちのなかで、どうやって20番以内にもぐりこむのか、そのためにはどのポジションが有利なのか。必死になって考えて行動し、チャレンジする。そして、いろんな軋轢を生み、ぶつかり合いながら時を過ごす。
その結果は、甲子園でのベンチ入りなのか、試合に出ることなのか、そんなことはわからない。いや、どうでもいいのかもしれない。どれもこれも青春の証(あかし)なのだから...。

センバツと選手権。毎年二回甲子園で高校野球が開かれる。甲子園に辿り着いた高校。甲子園で勝つためにやって来た高校。そして出場が叶わなかった高校。最後まで勝ち残るのは、たったの一校しかないとは、甲子園とはなんとも残酷な現実。
今では、普通の県立高校が勢いで甲子園に出てくることは考えにくい。すると、きっと日本中に何百人も青野やノブたちがいるんだな。

原作よりも映画の方が爽やか。それは間違いない。
主人公の二人は有名な若手の俳優なのかな。ボクは知らない二人だけど、なかなか良かった。でも、高校球児を演じて、なおかつお風呂のシーンがあるのなら、もう少しカラダを作っておく必要があったかな。スポーツをしている高校生はもう少し筋肉付いて締まってると思います。はい。

まずまずのオススメ。
ボクは、青野が走りに走って“ひゃくはち神社”で偵察から帰って来たノブと会うシーンで目頭が熱くなってしまいました。
ちなみに、新聞記者とスカウト、原作には登場してません。チャンスがあれば、是非、原作もお楽しみください。

おしまい。