黒い眼のオペラ

若き日の佐藤蛾次郎がKLを彷徨う



  

正直に云って、よくわからなかった。
この映画が始まってから、ようやく「あゝ東京で何度も予告編を観たやつか...」とようやく思い出したほど。
佐藤蛾次郎をちょっと細くして若くしたような男を取り巻くなんだかワケのわからないでも濃厚な世界が描かれている。KL(クアラルンプール)?の入り組んだ集合住宅、その舞台そのままの入り組んだ人種たち。そしてそれを受け入れてしまう空気が漂っている。
描かれている物語りや背景をすんなり受け入れられるのか、それとも拒絶感を覚えるのか。それによってこの映画への評価は大きく分かれるのだろう、きっと。

なぜなら、台詞とか説明とか、そんなものが極端に少なく、感覚でどんどん理解していかなければ物語りから取り残されてしまうから。いや、そもそも理解することを求めているのではないのかもしれないけど。
で、ボクは付いて行けなかった。残念ながら。

そもそも、優しいお話しではない。
冒頭からして怪しげな街角。屋台で(まるで魔法のように)作られる料理。それを見つめるだけのシャオカン(佐藤蛾次郎・リーカンション)。ふっと切り替わった画面。そこではもっと怪しげな講釈が繰り広げられ、言葉巧みに男たちの欲望を煽っている。そのパフォーマンスに酔いしれた男たちはなけなしの金を吸い取られる。でも、元から金が無いシャオカンには吸い取られるものはない。その代わりに、暴力という代償を支払らわされる。
妙な部分だけ丁寧に描かれている。どこからか拾ってきて、仲間とわっしょいわっしょいと運んできたキングサイズのマットレス。一途に洗い、そして天日に干す(いっこも清潔になったようには見えないけど)。その一つひとつが妙に丁寧なのだ。その妙な男ラワン(ノーマン・アトン)も、どこの国の人かわからないけれど、かなり変わっている。件のマットレスを運んでいる最中に、道端でぼろぼろになって横たわっているシャオカンも拾ってしまう(拾われたシャオカンもそのまま居着いてしまうのも不思議なんだけど)。
一方、唐突に、前触れも説明も無く登場するのが、植物人間として横たわる若い男の世話を焼く女シャンチー(チェンシャンチー)。彼女が寝起きする部屋も凄いが、訳がわからない境遇も凄い。

宿無しの浮浪者シャオカンと彼にかかわってしまった一人の男とひとりの女。
別にKLであろうとなかろうと、それはどこでも良かった。香港でも台北でも、そしてトーキョーでも。
登場人物も場所も、何もかもが都会という容器の象徴で、その容器に閉じ込められているボクたちは出口を求めて彷徨い歩くのか、それとも何もかも見失い、狂ったかのように街灯にアタックし続ける蛾のようなのか...。

観る人を選ぶ作品。共感するのかそれとも退屈極まりないのか...。ボクはどちらかというと後者でした。

おしまい。