僕の大事なコレクション

あきらめにも似た気持ちで待つ場所



  

予告編を何度か拝見して「観てもいいかな」と思っていたら、絶対に観ると決めていた「ロンゲスト・ヤード」と共に天六のホクテンザで上映される。
何がびっくりしたって、韓流シネフェスでもないのに、ホクテンザの座席が半分以上埋まったこと。やっぱり“指輪”の威力は凄いんだ!

ユダヤ人は流浪の民。
ボクはその歴史には明るくないけれど、ユダヤはナチス・ドイツに迫害されていただけではなく、ロシアにおいても同じような差別を受けていたのか...。
ただ、ここで語られる物語りは、単にユダヤの歴史を紐解くのではなく、ユダヤ人とは特定せずに“自分のルーツ探し”として受け止めたい。そうしないと、ちびっとイデオロギー色が強くなりすぎて、どうも色眼鏡をかけてスクリーンに向かい合わなければならないから。

巧に背景が語られる。祖母から手渡された一枚のモノクロ写真。
イライジャウッドは祖父と一緒に写っている少女を探しに、その写真と同じ風景を一目見るために、米国からはるばるウクライナまで旅立つ。しかも、ウクライナへ旅立つユダヤ人が少なくないことを教えてくれる。こうして巡礼(?)するユダヤ人をガイドする職業が存在しているのだから。

ここから語り始められる物語りは、夢であったりうっとりするようなものではない。ただ、表面上に流れるずっこけコメディ調のオブラートに巧みに丁寧につつまれた哀切の物語りなのだ。
重く辛く、そして切ない。
ただ、とうとうと切れ間なく流れて行く時の流れは、そんな思いを癒してはくれないが、忘れさせてはくれるのかもしれない。ただ、その流れがふっと緩んだときに、昔を振り返り胸を刺す痛みを思い出すものなのかもしれない。

若ければ、この手のお話しは「あゝまたか」と流してしまったかもしれない。しかし、恐らく人生の半分を通り過ぎてしまっているボクは、心のあちこちにいろんな“あきらめ”が巣食っている。そうすると、この物語りに出てくる老人たちの気持ちが、いろんなカタチでわかったりするんやなぁ。そうすると、どうってことがない部分ではっとして、そして涙ぐんでしまうから始末が悪い。
探す人はある意味、気まぐれだ。行くかもしれないし、行かないかもしれない。でも、待っている人はそうは行かない。いろんな意味で、いろんな人を、いろんな思いを胸に秘めて、ただひたすらに待つだけ。待つことしか出来ない。そしてその長い時間の中で、心が擦り切れたり“あきらめ”たりしてしまうんだろうな。

ボクには帰ってもいい場所としての故郷はあっても、自分も含めたルーツをの足跡をたどるために旅立つ場所はない。それが果たして、いいことなのか、幸せなことなのか、それとも淋しいことなのか...、そんなことをふと考える時間でもありました。

トラキムブロド。草原の一軒家に通じる畑一杯に咲き誇るヒマワリの黄色。
この色はいったい何の象徴だったのでしょう。

おしまい。