メゾン・ド・ヒミコ

ピキピキピッキー!



  

昨年公開され、評判も良くて随分ロングで上映されていたにもかかわらず、何故か観逃していた。ところが、ちゃんと縁があるもので京都のみなみ会館で期間限定のリバイバル上映が組まれている。おまけにこれまた観逃していた「シムソンズ」とセットだから嬉しい。
ムチャクチャ素晴らしい好天に恵まれた5連休の初日、ほぼ満員の新快速に揺られて京都までお邪魔しました。

この映画は観るつもりだったので、ヒットした割には、ほとんど情報を仕入れていなかった。だから、唐突な映画の入りに戸惑う。頭の中に「?」を点滅させながら、映画は廻り始める。そして、ある休日、柴咲コウがメゾン・ド・ヒミコを訪れるあたりから、ようやく落ち着きだす。観る側を不安に陥れる(?)この導入は悪くない。

そうだ、誰だって年を喰う。誕生日が来て純粋に嬉しいのは、18になる頃までだろうか。それ以降は、誰でも1年にひとつずつ年齢を積み重ねてしまうのだけど、それに抗ってみたいと思うのは、きっと一度や二度ではないハズ。
ハンサムだろうが、ブスだろうが、金持ちでも、貧乏でも、誰でも年を重ねて老いていく。

その昔遊び人だったという叔父に「盆と正月は、飲み屋のホステスほど淋しいものはないんや」と教えられたのを思い出す。盆や暮れ、人々は本来帰るべき場所へ帰ってしまい、飲み屋には来ない。お店も休みになってしまうし、ホステス達は帰る場所を持っていないからだと聞かされた。そのときは、そんなものかと思ったけれど、この映画を観ていて叔父のその言葉の意味がわかったような気がした。

年老いたオカマにとって、帰る場所はない。
そして、帰る場所がないのなら、その帰る場所を作ってしまえ。そうして出来たのがこの物語りの舞台になるメゾン・ド・ヒミコ。

舞台のコンセプトはよ〜くわかった。でも、ボクはここで語られる物語りの本質がもう一つ理解出来なかった。
親子の葛藤を描きたかったのか、それともゲイと一般人の軋轢をゲイの立場から描いたのか、それともオダギリジョーと柴咲コウの一風変わった恋模様を描きたかったのか、たまたまマイノリティの象徴としてゲイを取り上げただけで、その象徴としてのゲイの尊厳を守れるような養老施設が必要だという警鐘を鳴らしたかったのか。それともボクには伝わってこなかった別の何かを伝えたかったのか...。いやいや、どんな理想を掲げようとも、やっぱり世の中はお金ってことだったのかな?
結局は、設定の奇抜さで話題を呼んだだけだったのか?

まぁ、わからなくもないけれど、ラストのハッピーエンド的な終わり方もどうなんでしょう?
観ている最中には、そこそこ面白いように思えたけれど、こうして振り返って見ると、なんだか“その場限り”だったような気がしてなりません。

このところ、邦画洋画を問わずテーマがゲイであったり、出演者の中にゲイが出てきたり、そんなことが極端に増えているように思う。これって、ボクは実感としてよくわからないのだけれど、実際の社会においてもゲイの方がそんなに増えてきたということなのだろうか? それとも、そういう存在が“便利”な存在として多用されているだけなのだろうか?
もし“便利”な存在として使われているのであれば、あまりにも安易ではないでしょうか? ボクはちびっと癖々してます。

おっと書き忘れるところだったけれど、ヒミコを演じている田中泯。前回この人にお会いしたのは「たそがれ清兵衛」。あの時とはガラっと変わった役どころ。しかも、この強烈な個性を違和感無く(?)演じてしまうところが凄いです。う〜、やっぱり役者さんも器ってあるんやなぁ。

おしまい