メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬

ロバにまたがってピートが向かったのは...



  

広大で急峻な山脈を分け入り、ようやく辿り着いたと思ったら、リオグランデ川の流れが行く手を阻む。しかし、3,000キロに及ぶ国境線をわずかな人数の国境警備隊が監視するのは無理だ。密入国を試みるものにとって、国境警備隊に発見されてしまうのは、よほど運が悪くて間抜けな奴なんだろうきっと。

「いい奴」の定義は微妙。 どんな男をして「いい奴」とするのかは、判断を下す人間が、どんな人生を歩み、どんな奴と付き合ってきたかによって大きく違ってくる。
ピートについて多くは(いや、ほんの少しも)語られないが、この曖昧模糊とした叙情詩のような映画の本質は、語られなかったピートの物語りなのではないだろうか。そんな気がした。
語られることがなかったピートという男。彼は中年を過ぎ老年と呼んでも差し支えないテキサスの田舎町に住むカウボーイ。彼がふとしたきっかけで知り合ったメキシコからやってきたカウボーイ、メルキアデスと友情を結ぶ。ピートにとってメルキアデスは「いい奴」だったんだろうな、きっと。
ピートはメルキアデスから頼まれ約束させられる。「もし、俺が死んだら、ここに埋められるのはいやだ、向こう(メキシコ)に埋めて欲しい」と。そして、家族の写真を見せられ、彼の家族が住むヒメネスというメキシコの村を教えられる。
どのようないきさつがあって、この二人の間に篤い友情が結ばれたのかも語られはしない、ただ、ピートがメルキアデスから馬を譲られたり、メルキアデスにデート(?)の世話をするエピソードが絡まるところを見ると、馬が合ったというかよっぽど心が通じるものがあったのだろう。お互いに「いい奴」だと認め合った。

もう死んでしまった友人を、墓を暴いてまでメキシコに連れて行く。普通に考えれば(考えなくても?)、これは狂気の沙汰だ。愛用品や髪の毛や骨ではなく、もう物も言えなくなってしまったメルキアデスを物理的にメキシコへ運ぶのにどこまで意味があったのだろう。
でも、ボクはなんとなくピートの行為がわからなくもない。
どうしてここまでするのか? これはまさしく、語られなかったピートの物語りなのか。 ピートのこれまでの人生がどんなものだったのかは、画面を通じて薄ぼんやりとは伝わってくる。想像の域はでないけど「きっとこんなんやったんとちゃうかなぁ」って。

ボーダーの向こう側とこちら側に流れる空気の違い。
何週か遅れてドラマが放送され、意味がわからないのにそれを眺める男たち。荒野の一軒家で、響きがいいという理由だけでスペイン語のラジオを一日中聴き、死を待つだけの老人。旦那がいるのに、半場公認のような形でいろんな男と逢瀬を繰り返すダイナーのくたびれたウェトレス。都会からテキサスへやってきたものの、時間を持て余す若妻...。家族って、人間って何なんだろう?
今思い出すと意味不明かのように思えるピースが、映画の中ではピタリと当てはまり、ピートの語られなかった物語りを肉付けしてくいく。

「今のアメリカはこんな風になってしまったけど、俺は俺流を貫きたい」そんなピートの独り言が聞こえて来たような気がします。
結局、メルキアデスの桃源郷はもうなかった。ロバに乗って出かけていくピートは自分のヒメネスを探し出掛けたんだろう。

国境を越えた街にある飲み屋から、レイチェルへの電話がつながるのを待つシーンがいいですね。メルキアデスがピートに渡す地図もいい。
ストレートにメッセージが伝わってくるわけではないと思う。生意気な言い方をすれば「観る人を選ぶ」作品なのかもしれませんね。

おしまい。