白バラの祈り 〜ゾフィー・ショル、最期の日々

白バラには、信念と勇気が似合う



  

観たいなぁとちょっぴり思っていたけど、OSでモーニングのみだし、結局行けそうにないなと諦めかけていたら、「好評につき延長決定!」というお知らせ。いいねぇ、こんな変更は。
ということで、先日もらった招待券を使って平日にノコノコと出掛けて行きまし。水曜のレディス・ディだけど20名ほどの入り、思っていたより淋しいかな。

自分の信念を持つことは凄いことだ。
しかもその信念が、今自分が属している体制に反するものであれば、それは「反逆」であり、その信念を貫くことすらも辛いし、ましてやその信じている信念を流布させ、賛同者を募るのは文字通り「犯罪」ですらある。
冷静に考えればそんなことはスグにわかりそうなものだけど、信じるものに逆らってまで、体制の中で安穏と暮らすことを選択しないことも大切。今、自分が立ち上がらなければ、他に誰がすると言うのか...。

このお話しの凄いところは、割と客観的に淡々と描かれているところだと思う。
誰がどんなふうに観ても、主人公のショルに感情移入して観るのに決まっているのに、彼女の心の中はボクの中に入り込んではこない。
ある意味、突き放して、ちびっと離れている場所からカメラが事実を捉えている。そのクールさが何とも言えない。

どのような経緯で、白バラが反戦活動に乗り出したのか、そしてショルがこの活動に傾注していた理由は何なのか、きっかけや途中経過があまりにも語られないのが少し残念だった。
ボクたちはこの後の歴史の事実としての結果を承知している。幾ら白バラが頑張ったところで、それは変わらないのも知っている。結局、白バラの活動は無駄だったとは言えないものの、不発に終わったのも事実。だからこそ、彼らの活動の源泉をもう少し知りたかった。

まるでこの映画の象徴かのように、裁判官が検察官を兼ねた立場で告発を行い、判決を言い渡す(形式だけでも裁判を行うこと自体が、日本に比べるとまだ民主的か)。歴史の事実を知っているボクにとって彼の言動は滑稽に過ぎないが、もし、同時代に生きていたとしたら、ボクはこの裁判や裁判官にどんな感想を持ったのだろうか?
裁判にしても戦況にしても情報の隠蔽はなく公開されていたのだろうか(そうだったとは思えないけれど)? 体制にとって不都合な情報は隠し、不都合な存在は消し去る、そんなことが安易に行われ、大衆の意思を扇動し、意図した方向へ導く。それが手段だったのだろうけれど、思わず今の我が身を振り返ってしまう。
すなわち、今ボクが存在している日本という体制の中で、自分が何を信じ、何を正しいと思って信念としているのか? 何も考えずに安穏と生活しているのではないだろうか? いや、何かを知らされないようにされているのではないか? 疑問に対して諦めたり、見逃したりしてはいないか?

無理に難しく考える必要はない。でも、いろいろ考える必要もあるお話しだと思う。
淡々と描かれているからこそ、ある意味、熱く受け入れる必要があるのかもしれませんね。

延長されていた、OS名画座での上映も終わってしまいました。ビデオやDVD、あるいはTV放映でご覧になっても、かなり意図が明確に伝わってくると思います。

おしまい。