リトル・ランナー

素直になれなくて...



  

「炎のランナー」っていつの映画だったのか忘れたけれど、封切りで観て、胸を熱くした(サントラのレコードも買ってしまった)。純粋に速く走りたいという思いと、教義が第一で許される範囲の中で走りたという思いが、激しくぶつかるお話しだった。現代ではこのお話しで語られる二つの思いが同じ天秤に乗ること自体が考えられないけど、当時と今ではそれだけ価値観が違ったのですね。そんなことを思い出させる作品だと思ったら、監督も「炎のランナー」を意識して作ったのだと、後で知りました。
確かにこの「リトル・ランナー」も思わず熱くなるお話しだけれど、ボクにはいささか大風呂敷を広げすぎたと思わざるを得なかった。同じく“リトル”と付く「リトル・ダンサー」のラストが未来への飛躍を予感させるジャンプのシーンで締めくくられる(実際は違ったような気もするけど)のに対して、この「リトル・ランナー」ではボストン・マラソンを走らせてしまうのは、どうなのかな? それによって、一気にリアリティが薄れてしまう、そんな気がしました。別に実話でなくても構わないけど、観ている側が最後まで心地よく酔ったまま座席を立てる工夫も必要なのではないでしょうか?
こんなことを書いたけど、素直な気持ちでこの映画に向き合って、そして素直に感動できる。そんな直球勝負のお話しであるのも確かです。

ボクのような宗教心が薄くて、キリスト教に帰依していない日本人が捉えている“奇跡”と、敬虔なキリスト教徒の方が理解している“奇跡”とはちょっと種類が違うんだな。“奇跡”を起こした人は、長い時間をかけてそれが“奇跡”であったと教会から認定されると聖人として列せられる。もちろん、列せられたときには“奇跡”を起こした本人は、もう生きていない。
特別な存在ではなくても、“奇跡”が起こせるかもしれない。そう思うのは、純真な心を持つ者のみに許される特権。邪心の塊で俗物に成り下がっているボクには縁がないものだ。
主人公のラルフ・ウォーカー、中学生(?)だけど、どこかもう世の中を達観しているようなフシがある。だけど、授業でふと先生が漏らしたエピソードに心を奪われる。そして「ボクにも“奇跡”が起こせるかもしれない」と思うのだ。

このラルフの心情を描写する映画の前半部分には力が入っていて、上手いと思う。
だけど、彼がボストン・マラソンを走ろう、いや、走るだけではなく「勝とう」と決意してからの努力にもう少し説得力をもたせないと、それまでの全てがウソっぽくなるなぁ...。そこが惜しい。
同じようなことは「コーラス」でも思ったから、ひょっとしたらボクの感受性の問題なのかもしれないけど。

勝つことに意味があると思ってはいけないんだな。
純粋に何かの目的に向かって努力をする、そんな気持ちを大切にしたい。わけてもらいたいと思う。世俗のアカにまみれたボクには眩しい気持ちだ。そんな素直な受け止め方が必要なんだ。

何かのサークルの人たちだったのでしょうか、20名ほど派手目の学生さんのグループが来ていて、映画のエンドロールが流れ始めると彼らが大きな拍手を送っていたのにはちびっと驚きました。でも、いいことですよね。
素直な気持ちになりたいときにはオススメかもしれません。

おしまい。