ヒナゴン

故郷は想い出すときにだけそこにあるのではないんだなぁ



  

朝、十三の駅を降りてナナゲイまでの道すがら、まさかもうこの道を歩くことがなくなるとは思ってもいなかった。

この春先に完成して、広島県内で先行上映されていた「ヒナゴン」がようやく大阪にもやってきた。
「行かな、行かな」と思いながら、とうとうレギュラーでの上映が終わりモーニングのみの上映になってからようやく拝見してきました。
ちょっと早く着いたので、開場までの間待っていた。小学生中学年くらいの女の子を連れた夫婦、その会話はもろに広島弁だ。そうだよね、何か縁がないとこれくらいの世代の方がナナゲイへ子連れでいらっしゃるのはちょっと考えにくいもんね。

はっきり言って、お話しは「こんなものか」という程度。
過疎、老齢化、そして合併問題に揺れる中国山地の山間にある町が大いに揺れる。その中で町の活性化や再生は可能なのか。いや、そうではない。町が町であるために、存在し続けていくために、可能な手段は実はもうそんなに残されていないということを改めて教えてくれた。
ただ、そのことを敢えて直視しない。直視したくない、考えたくない。それだけだ。

故郷は、都会暮らしに疲れた人が、癒しを求めて帰ったときに暖かく迎えてくれるためだけに存在しているのではなく、幾ら過疎が進んでいて人口が少なかろうが、そこに暮らす人々がいて成り立っている。
わかっているけど、忘れがちなことを教えてくれる。
秋になったから故郷から新米が届く。そんな都合のいいときだけ故郷をありがたく懐かしみ思い出す。だけど、田を守り、田植えをして、雑草を抜き、稲刈りをする人たちの存在はなかなか思い出せないものだ。
日本はいつからそんな国になってしまったのかなぁ...。

30年ほど前、広島県の東北部。中国山地の山合いの町比婆郡西城町(現庄原市西城町)に“ヒバゴン”という謎の類人猿らしき生物の目撃情報が相次いだ。この付近の山の名にちなんで命名され、発見した人には賞金を出すという触れ込みで話題になり、ウソかマコトか探検隊が繰り出された。今で言う町興し、村興しのハシリだったのだろうか。ほぼ同じ時期に“ツチノコ”も騒ぎになりましたよねぇ。

そして、現代。過疎化には一層の拍車がかかり、JRの芸備線もたったの1両編成で淋しく鉄橋を渡っている。
かつて“ヒナゴン”を探して森深く歩き回った少年達も中年にさしかかり、今では町長と役場の課長に収まっている。自分達が中心となって町を盛り上げていくべき立場になっている。

結局、同じように田舎の高校を卒業して、そのまま故郷に残った者、都会の学校へ進学した者、そして帰って来た者、もう帰ってこない者、様々な人間模様があり、まだどこかに故郷へ根っこを残している(残さざるを得ない?)者たちの物語りなのだ。都会ではまだまだ相手にされない年齢であっても、田舎ではもうそんな人たちに未来を託さずにはおられないのだ。
住んでいる以上、どんなことになろうとも投げ捨ててはおけない。そこに生活がある以上「もう、やめた!」とは決して言えない。

映画を観ながら思ったのは、この比婆郡西城町のことではない。
今は、どんな田舎でも町長や市長、あるいは議員、公務員になりたいと思う人がいて、選挙があり採用試験が行われている。でも、いつか、そう遠くない将来、その担い手が誰もいなくなるのではないだろうか。貧乏くじは誰も引きたくはない。
イッちゃんこと型破りの町長は魅力的。だけど、個人的な魅力だけでは、もうどうしようもないとこにまで追い詰められているのだな。

必ずしもこんなことを考えながら観る必要はないでしょう。故郷や故郷に代わる場所がある人は幸せ。そして、その幸せがずっと続いて必要なら、その故郷に対して自分が何を出来るのかを真剣に考える必要がありそうです。
ちびっとホロ苦い作品なのは間違いありません。
広島に縁もゆかりもない方がご覧になっても、そこそこは面白いと思いますょ。

おしまい。