バス174

意図された視線が気になる



  

先日ナナゲイで「安陽の赤ちゃん」「パセリ」を観たときに同時上映されていて、そこそこお客さんが入っているのに驚いた「バス174」。
ふーん、ブラジル、リオデジャネイロで起こったバスジャックのドキュメンタリー。少し前に拝見した「シティ・オブ・ゴッド」を彷彿させるような作品なのか。あの作品は妙に乾いた迫力があったなぁ。
整理券の番号は20番台だったから、ナナゲイにしては入っている。

ところが、観ていて眠くて仕方がない。 製作者の主旨はわかる。でも「だからどうした」と思ってしまう。全く主人公のバスジャック犯サンドロに同情とか同化とか賛同とか出来ない。いや、そうではなく、彼のことを全く理解できない。
彼が悲惨な貧困生活の中で育ち暮らし、母親を目の前で殺されるという経験をしたことには同情するけれど、そのこととはずみでバスジャックしてしまうこととが、ボクの頭の中では結びつかない。
製作者は、遠因を示すことによって、このバスジャックの事件はブラジルの貧困が生んだ社会現象であり、サンドロ個人の責任ではないと言いたい(説明付けたい)のだろうが、それが押し付けがましくて、ボクの心はシラケてしまう。
この映画がブラジル社会で貧困対策への喚起となったのだろうか? それとも世界中の国々の人々が「こりゃいかん」と思わせたのだろうか? ボクはきっとそんなことなかったと思うな。この映画を観た多くの人は、きっと理解できなかったんだと思う。

バスジャックといえば、日本では2000年に起こった少年による西鉄バスの事件が思い出される。あの事件の詳細は知らないけれど、サンドロとは物質的にも精神的にもかけ離れた犯人像だったように記憶している。高速道路を東へ走るバスと、街中で止まりTV中継されているバス。そんな状態もまるで違う。だからこの二つの事件を比較することは出来ないな。
「シティ・オブ・ゴッド」は、有無を言わせぬ説得力があった。そして始めて知るブラジルの都心部の中核に存在するカオスの世界に驚きもした。それに較べてしまうとこの「バス174」には説得力が欠けている。ボクがこの事件を事前に知らなかったことを差し引いたとしても。

ドキュメンタリーとしては、綿密な取材と検証を積み重ねた作品かもしれないけれど、ボクが納得できないのは、製作者の帰結の部分なのだろう。
製作者の視点で欠けているのは、サンドロに対する批判(非難?)。まるで彼には罪がないかのようなこの描き方は、製作者のもう一つの意図が見え隠れしている。彼ら(製作者)にとっては、この事件は事件の背景を告発したいがための「きっかけ」に過ぎないかのようだ。
別にサンドロをヒーローかのように描いているとは言わないが、まるで擁護するかのような描き方はいただけない。
それが一層この映画の後味を悪くしてしまっている。

十三での上映はとうの昔に終了しています。丹念に網を張っていると、どこかで上映されるかもしれませんし、ビデオやDVDになるかもしれません。但し、そこまで努力をしてご覧になる価値は...、どうでしょう?

おしまい。