バタフライ・エフェクト

奇抜なアイデアを生かした作品



  

タイムトリップをするお話しの場合、普通は過去を書き換えてることによって現在が変わってしまうことについて、主人公は悩んだりためらったりするものだけど、この映画の主人公エヴァン(アシュトン・カッチャー)は一切躊躇しない。どんどん過去へ遡り、どんどん過去を書き換えてしまう。そのけれんみの無さは、観ているこちらにとって、一種の戸惑いを覚える。

過去のある時点にまで戻り「良かれ」と思って書き換えたことが、本人の意図とは反して、違う良くない結果を誘発してしまう。
そう、人生の線路は一つのポイントを切り替えたからと言って、思い通りの目的地に到着するものではないのだ。そんなことを思ってしまう。
もし、ボクがエヴァンのように過去へ何度でも行くことが出来て、自分の人生のポイントを切り替えることが出来たるとすれば、一体どこへ、どのポイントへ行くのだろう。もっとも、ボクの幼い頃の日記はもうどこかへいってしまったし、しかもずっと書いていたわけではない。それに、一時的に気を失ったことも、残念ながらないしなぁ...。

人生のポイント、運命の別れ道って意外なことにその瞬間は自分では意識していないことが多そうだ。
「もし、あの時こうしていたら...」なんて後から思うのにすぎない。何かをするとき、決めるときに「この決断が一生を左右する」とか「今これをしなければ一生後悔する」とは気が付かない。それらをわかる人は、偉くなったり出世したりするんだろうな。残念ながら、ボクは気付かない凡庸な人のうちの一人だ。

エヴァンは近所に住んでいた幼馴染の少年二人とその妹一人。合計4人で幼少時代を過ごしていた。今は州立大学で心理学を専攻している。友達だったトミーは刑務所の塀の中にいて、レニーは引きこもり、そしてトミーの妹ケイリーはうらぶれたダイナーで冴えないウエイトレスをしている。自分以外の三人が冴えない青春時代を過ごしている理由をエヴァンは思い出していく。
そして、その理由となる事件を一つひとつ違う方向へ向かうようにポイントを切り替えて行くのだが...。

改めて思い出すと、とんでもないお話しで、ご都合主義の展開。
でも、でも。妙に心に残る作品であることは確か。
時を自在に(でもないけど)超えて、過去を変えてしまう。そんなことあるはずないんだけど、映画を観ているとひょっとしたらこんなことがあるかもしれないと考えてしまうから不思議。
う〜ん、でもな...。最近文庫化された重松清の「流星ワゴン」(講談社文庫)を読んだ直後だけに複雑な気分です(「流星ワゴン」では過去を塗り替えることは許されない)。本で言えば「リプレイ」ケン・グリムウッド(新潮文庫)を思い出しました、ちょと趣は違うけれど。

結局、ボクのような凡庸な人間は時代の激流の中にいて、決して遡ることを許されないんだろうな。
エヴァンが最終的に選んだ決断、そして精神に異常をきたしていると判断されてしまったエヴァンの父親が印象に残ります。

おしまい。