ミリオンダラー・ベイビー

Tough ain't enough



  

もう何十年も前のこと。ボクの家にコロという名の犬がいた。なかなか愛嬌がある雑種の和犬だった。ボクは遊ぶのに忙しくて、散歩に一緒に行くことも少なかったけれど、彼女(メスでした)を可愛がっていたし、大好きだった。でも当然犬にも寿命があり、数年後のある日コロは天寿を全うした。その時の母親の落ち込みようはひどく、傍目から見てもその落胆振りには声を掛けるのもはばかられた。
そして数年後、再び犬を飼おうという話しが持ち上がったとき、母親は猛烈に反対した。曰く、誰が食事の世話をし、誰が散歩に連れて行くのかと。もちろん、ボクは最初しかしないだろう、母親にそう言われると諦めるしかなかった。でも、今思い出してみると、母親は新しくやって来る犬の世話をすることが嫌だったのではないと思う。新しい犬もかわいいのに決まっている。だけどその犬に幾ら愛情を注いだところで、犬はいつか死んでしまう。愛情を注いだ犬がある日死んでしまい目の前からいなくなってしまう。愛するものを失ってしまう時に味わう悲しみ、それが母親には嫌だったのだろう。
悲しさを味あわずに済ます方法は一つしかない。愛さないこと。それが自分を守れる唯一の方法なのだ。
コロは不幸せだったのか。それはボクにはわからない。でも、彼女は家族同然に扱われ、少なくとも不幸ではなかったのだと思う。いや、コロは幸せな犬だった。それよりも、もう愛することを拒否してしまった母親の方がよっぽど不幸なのだと思う。

マギー(ヒラリー・スワンク)が拙宅で飼われていたコロで、フランキー(クリント・イーストウッド)が母親と同じだと云ったら失礼だろうか。でも、ボクは思う。マギーは幸せだったと。

少し長い(2時間オーバー)けど、よく考えて練られたお話し。
導入部分でフランキーがどういうキャリアの持ち主で、どのような考え方でジムを経営し選手を育てているのか過不足なく描かれている。用心深く、慎重すぎるがゆえに臆病にさえ映る。チャレンジして全てを失うよりも、ガードを固めて今あるものを守りたいのだ。フランキーの信条は「自分を守れ」。
そんなところがジムのボクサーには不満だ。チャンスが目の前にあるのにマッチメークしてくれない。我慢ばかりを強いる。時は待ってくれない、チャンスを逃したくないと考えるのも不思議ではない。
そして、今回も世界を狙う有能なボクサーがフランキーから去って行った。守ってばかりでは、チャンピオンにはなれない。

そんな時にフランキーのジムの扉を叩いたのがマギー。
フランキーから「女は駄目だ」と断られても意にも介さない。さっさとジムの会費を半年分前払いし、サウンドバックを相手にし始める。ジムでフランキーの片腕であるスクラップ(モーガン・フリーマン)を味方につけ、どうにかフランキーにこちらを振り向かせることに成功する。
マギーには失うものなど何もない。彼女のこれまでの境遇、これをボクらに理解させる手腕がお見事。
13の時からダイナーでウエイトレスとして働き続けている。下げる皿からお客の食べ残しをくすねることを何とも思わない。TVもない狭いアパートの一室でボクシングのことだけ考えている。そして今に至るまで、幼いときに死に別れた父以外の誰からも愛情のかけらさえ与えられたことはない。

マギーはある意味純粋に「ボクシングが好きなだけ」なのだ。マギーはボクシングでしか自分の存在意義を見出せない。彼女にとってボクシング以外に守らなければならないものなど一つもない。今の彼女にとってはボクシングが全て。
努力と熱意だけでボクシングが上手くなったり、強くなったりするわけではないだろう。でもスピードボールを満足に叩けなかったマギーが、スクラップの援助もあり、徐々に上達。いよいよフランキーの元でのデビュー戦を迎える。
黙ってマギーの姿を見ているだけだったフランキー、彼も徐々に心を開き、愛することの恐さを乗り越え始める。

一言だって「愛している」とか「好き」という台詞があるわけではない。
だけどボクには痛いほど伝わってくる。いかにマギーがフランキーを愛していたのか、そしてフランキーがどれほどマギーを愛していたのかを。そして、マギーは幸せだった。フランキーの愛を一心に受け止めて。
ボクシングの映画ではない。たまたま二人がボクシングを通じて知り合っただけ。しかし、二人はボクシングを超えて、やがてお互いの姿の中に「父」と「娘」を見たのだ。
愛する者を失って悲しいのは当然だ。だけど、それは問題ではない。そうではなく、愛した相手が幸せだったのかどうかが問題なのだ。

難しくとも何ともない。
黙って映画館へ行き、思いっ切り泣いてください。
オススメです。

おしまい。