赤いアモーレ 

その細い線の先には...



  

結局、男ってないものねだりをしてしまう生き物なんだろうか。
ローマで外科医を務めるエリート、ティモーテオ(セルジオ・カステリット)。ある暑い日の午後、貧しい街角で乗っていたクルマが故障してしまう。もううんともすんとも動かない。クルマを捨て、近くなにあったカフェへ入る。「どこかに修理工場はないか?」
たまたま店にいた女イタリア(ペネロペ・クルス)に連れられ、修理工場まで行くが誰もいない。男は電話を借りるために、イタリアの家へ寄る。
男が掛けた電話が鳴る先は、海岸の避暑地。涼しげなコテージにはベッドの上に風が吹きぬける。
その電話に出る人は、いない。

男は自分が暮らしている生活とあまりにもかけ離れた、女の生活、この地区がおかれた境遇、いつのまにかそれらに興味と親しみを覚える。
そりゃそうだ、この女、イタリアは美人でスタイルもいいのだから(もちろん、ペネロペ嬢だし、映画だからね)。

クルマがどうにか修理をしてもらえることになり、男はもう一度女の家へ行き、誰も出ない電話を掛ける。そして...。
前触れもなく強引に女を床に押し倒す。

やがて、そんなことがあったのが15年も前のことなのだとわかる。

この映画の冒頭、大雨が降る交差点に救急隊がやってくるシーンが映し出される。交通事故。道路に投げ出されたヘルメット、みるみるうちに雨がたまる。
日常ではありふれた風景だ。
あってはならないことだけど、交通事故は毎日起こり、救急車はけが人を毎日病院へ送り込む。そう受け入れる病院にとっては毎日のことなのだ。
ベッドに載せられているのはまだ少女。身元を確認するために所持品を調べていた病院のスタッフの動きが止まる。

この娘。
この娘の出現で、あの女はいなくなってしまった。

映画で映し出される映像の一つひとつはとてもリアルで存在感がある。回想シーンも現在のシーンも現実感が濃厚なのに、現在と過去を結ぶ線がいかにも細い。お互いのリアルさに立ち切れてしまいそうに細く、頼りない。
男は15年前のことを忘れていたのか、それとも脳裏から締め出していたのか。それが、娘を失う、その決定的な報告を聞く心の準備をしている刹那。病院の窓から見える渡り廊下の途中に、赤い靴を履いたあの女の姿を見る。
何も言わない。もちろんこちらを振り返りもしない。そして、激しく降り続ける雨の中、女は前を見据えたまま、雨に打たれて椅子に座り込んでいる。

回想と現実が交差する。

これは男の夢だったのか、それはボクにはわからない。
彼は強くはない。でも、弱かっただけではない。少なくとも、破滅に向かっていると知りながら、アクセルを踏み込む勇気をもっていたのは確かだ。

リアリティがあるのに、ボクは夢を見ているような気がした。決して、美しかったり、満足度が高い作品ではない。それなのに、ボクが味わったこの不思議な感覚は何だろう...。

おしまい。