カフカ×変身

ちびっと考えさせられました


  

久々のヌーヴォ。初日の初回。朝の10時半だと云うのに、そこそこお客さんが入っている。
原作の「変身」は一度しっかり読んでみたい。そして、この不条理さをしっかり理解してみたい。

ある朝、起きるといきなり芋虫になっていたら、果たしてどうするのか。しかも、どうすればいいのか?
自分の意思を伝えることは出来ないのに、家族がしゃべっていることは理解できる。それがツライ。グレゴール・ザムザに落ち度があるわけではない。これを運命として受け入れるしかない。

この映画の中でもグレゴールの姿は入念に描かれているけれど、グレゴールの内省が描かれることは無い。彼がどんな思いで外界を見ていたのか、その思いは自分の中で想像するしかない。

“変身”した後の芋虫がどのように描かれるのか、それに興味があったけれど、何とも上手に処理されている。芋虫そのものがリアルであればあるほど漫画チックになってしまうと心配していた。

しかし、この不条理はどういうものか。観ていて切なくなる。
この映画は、観るまでにその人がどんな人生経験を積んできたのか、その経験によって随分観方が違ってくるのではないでしょうか。
変身してしまったグレゴールの姿を滑稽だと笑い飛ばすこともできるだろうし、突然芋虫になってしまった息子や兄を持つことになった家族の立場で困惑することも可能だ。さらに、こんな不条理な立場に置かれてしまい、挙句に拒絶され、最期通告を突きつけられてしまうグレゴールになりきって涙するのもいい。
この映画が終わってエンドロールが流れる中、ボクはほっとしたのも確かだ。もうグレゴールは苦しまなくていい。自ら身を引くことによって、家族は幸せを取り戻したのだから。でも、でも、グレゴールの立場で考えてみたら、どんなに虐げられようとも、罵詈雑言を浴びせられようとも、一夜で芋虫になってしまったように、一夜で再び元の姿に戻れたかもしれない、そんな淡い(?)希望をすぱっと断ち切られるような冷たい言葉と視線は、まさに胸に突き刺さったに違いない。

この映画をこうして思い返しながら考えるのは「もう一度観てみたい」という思い。
そして、もし自分がグレゴールであれば、ボクはどうするのだろう。そう考えながらじっくりと画面を追いかけたい。このやるせなさは何なのか考えてみたい。
それは、ボクの場合、本当は何もかも自分の責任で今の自分が存在しているのだけど、このグレゴールのように今のボクが、何か自分以外の要因で形成されてしまっている「なんてボクは不幸なんだ、不条理な下に置かれているのか」と、その責任を自分ではなく他に転嫁して自分を慰めたいからなのかもしれない。

そんな、ちびっと複雑な思いです。

静かだけど、ずしんと胸に迫る作品です。もうしばらく大阪九条のシネ・ヌーヴォで上映しています。一度ご覧になっても損はない作品だと思います。
もう随分ボクの指定席(?)に座っていません。ぐっすん。

おしまい。