風音(ふうおん)

どこかで聞いてみたい


  

続いてユーロスペース。残念なことに、ここも決して観やすいスクリーンではない(いや、かなり観難い)。30名ほどの入り。

なんとも哀しく、余韻を引く作品。
このお話しを“美談”にしなかったところに、深い悲しみの本質があるのだと思った。

東京から転校生がやって来る。母親に手を引かれてやってくる。
この子の母親はこの島の出身。男運が悪く、この子の父親である旦那から逃げてこの島へ戻って来た。

子供はあっと言う間に仲良しになってしまう。
釣りをしていたら、耳に届く不思議な音。その音は何かと訊ねる。「特攻隊の頭蓋骨の割れ目から風が抜ける音だ」と言う。ここでは、この音を「泣き御頭(なきうんかみ)」と呼んでいる。
そのシャレコウベの横に釣り上げた魚を入れた瓶を置く。それは一種の肝試しであり、そして賭けでもある。
すると、空気の流れの具合なのか、その日から「泣き御頭」が鳴り止んでしまった。

幾つかのストーリーが混じり合っている。
暴力を振るう夫から逃れてきた母子。遠い昔、実の兄のように慕っていた人を特攻隊員として亡くした人。まだ子どもの頃、海岸に流れ着いた兵士の亡骸を岩場に葬った経験を持つ漁師。どこまで明るく朗らかな子供たち。その子供たちと耳切りオジジとの触れ合い、などなど。

都会で繰り広げられるエピソードは、どこか世知辛く、暗い。そして、この島でのお話しは、どこか微笑ましくて明るい。
そりゃ、島での生活だって、暗くて悲しいこともあるでしょう。だけど海はそんなことを忘れさせるような包容力を持っているし、降り注ぐ太陽の光は、明るい気分にしてくれるのか。

清吉オジイのところに特攻隊で知人を亡くしたという女性(加藤治子)が尋ねて来る。区長さんも同行しており、経験談を話してくれと頼まれるが、無言で断ってしまう。どうしてだろう。
ここ数年来、この女性は特攻で亡くした知人の消息を求めて沖縄中を尋ね歩いている。生きているとは思っていない。せめて、その人の痕跡でも残っていないかと。ふと耳にした「泣き御頭」を知り、ここに辿り着いた。
後日、その音が聞こえる海岸で清吉オジイは彼女と出会う。「泣き御頭」は鳴らない。崖を見上げた二人には瓶が目に入る。

何も清吉オジイは、冷たいのではない。何事にあたっても、慌てないし、動じないだけだ。
それに老婦人も、突き詰めて物事を考えているのではなく、どこか「諦め」が漂う。
ボクなら慌ててしまい、その瓶を取り除くために崖を登るかもしれない。そして、得意げに仕舞ってあった万年筆を彼女に披露するだろう。
だけど、清吉オジイはそんなことはしない。その気持ちなんかわかるような...。そんな昔のことを蒸し返してどうなるものでもなし、と思ったのか、それとももう時間が解決済みのことでしょ、と言うことなのか。
封印された記憶を思い返すことはするけれど、それはもう自分の胸の奥深くに沈んでいる。それを再び浮かび上がらせることはないということか。
いやそれとも、いまさらその思い出を披露して、自分以外の誰か(この場合はこの老婦人)の心を今さら乱すこともないと判断したのか。
いや、もう自分自身を乱されたくなかったのかもしれない。

時というものは、何でも解決してくれるのか。
それは、実際に過ぎてしまうまでわからない。でも、癒えない傷がないように(まぁ、あるにはあるけど)、時間とはなんとも不思議なクスリなのか。

歴史や記憶は風化していくものだ。
風化させないためには“語り継ぐ”ことが必要なのかもしれない。でも“語り継ぐ”とは、ボクが思っている以上に多大な努力と忍耐が必要だし、時によっては非情な残酷さを併せ持つものなのだ。
“@@”には物証もあり、地域で知られた風聞も伝わっている。だから清吉オジイが「もういいでしょ」「もう勘弁してよ」と、黙して語らずという態度でも、ボクは許してしまう。
「もう思い出したくもない」清吉オジイにそんな思いをさせてしまった日本の、沖縄の歴史こそをボクたちは忘れてはいけないのだろう。

ボクにはもう一つわからないことがある。東京からやって来る男のエピソードは必要だったのか。このエピソードのおかげで、この映画そのものが妙に下世話で猥雑なものになってしまったような気がしてならない。惜しいな。
耳切りオジジのエピソードがとても良く出来ているだけに、この部分だけが浮いてしまっている。必要あったのかなぁ?
いや、それとも、カニやヤドカリが群がるシーンと共に、生きることの生なましさが表現したかったのか?

この「泣き御頭」、もしどこかの島の海岸で今日も泣いているのなら、一度耳にしてみたい。

おしまい。