アフガン零年

あの虹をくぐれば...


  

先日は345さんの引越し祝い。
と言っても彼女が新居に越してから、もう9カ月以上になるので、単なる“飲み会”なのかもしれない。お祝いも「圧力鍋をプレゼントする」とずっと前から宣言しておきながら、なかなか手ごろな鍋がなく、今回はタダで入手した“抱き枕”を持って行っただけ。ごめんなさいね。近いうちに改めて圧力鍋をなんとかします。
で、会を開いたのもボクの個人的な趣味で、阪神西宮からほど近い中華料理(?)「新香園」。このお店は、知っている人は知っている、西宮の隠れた老舗。
久し振りやなぁ。いつの間にか金・土・日の17:00〜だけの営業になってる。ここの手羽のカラ揚げはごっつい美味しいのでオススメ。ペロっと数人前を平らげてしまいまう。他のテーブルも「まぁ取りあえず」って感じで、このカラ揚げを山盛り注文している。持ち帰りもしているので、お近くの方は是非一度どうぞ!

さて、映画のお話し。

考えてみたら、ボクは完全に平和ボケしている。身近に戦争や殺し合いはなく、武力や暴力によって自分の命が危険にさらされたり、意志を曲げなければならなかったりすることはない(全くないわけではないけれど)。
そんな平和な環境に暮らしながら、韓半島や中東の情勢をあれやこれやと軽々しく発言してはいけないかもしれない。
そんなことを考えてしまうような映画だった。

今は、中東でもイラクに注目が集まっているけれど、この映画の舞台であるアフガニスタンは“911”をきっかけに攻略され、それ以前も旧ソ連の干渉から端を発し、以来、実に23年間も戦火がやむことがなく、戦争が続いていた。こんなに続くと、もう誰が味方で、誰が敵なのか、何が正しくて何が悪なのかもわからなくなる。何がなんだかわからないまま、国も住民も疲弊しきっている。
方や、ボクはカラ揚げをのほほんと頬張っているというのに...。

そんなアフガニスタン、タリバン政権下のある街でのお話し。
この街にはもう男がいない。いる男はターバンを巻き銃を手にしたタリバンの男たちだけ。
病院に看護婦として勤める母親。まだ幼い娘。そして、家でじっとしている祖母。この一家は三人の女だけの家族。
タリバンはイスラムの教えを忠実に守り、女が労働し対価を得ることを認めない。それでは、女しかいないこの一家はどうすればいいのか。しかも、母親が勤める病院は、もう何カ月も給料の支払いが滞っている。飢え死にするのか、それとも物乞いをして口に糊するのか。父親も、母親の男兄弟も、みんな戦場で命を落としている。誰かが働いて稼がないとならない。

娘は髪を切り、父親の服に手を加えて着込み、少年オサマに変身して知り合いの牛乳を売る店で働き始める。
その前の晩、孫の髪を切るとき祖母はお話しをする「あの虹をくぐって歩いたら、少女は少年になれ、少年は少女になれるのだと、虹を歩けたら幸せになれる...」。

そして、少女は幸せになれるのか...。

観ていて、切なさを通り越して、悲しくなる。
この映画はフィクションでありながら、ある意味、フィクションではなく、アフガニスタンの一面を鋭く表現したドキュメンタリーでもあるのだろう。そう、まだこの国には“希望の灯り”はまだかすかに灯されたばかりで、全員の手許を照らすにはか細すぎるのでしょう。
悲しいだけではなく、時にはユーモラスで微笑んでしまうエピソードも。これは、少女が少年に化けていることが巻き起こすエピソードだけに、素直に笑えない部分も...。
主演の少女の眼差しが忘れられません。
彼女が、彼女の家族が、そして出来ればアフガニスタンの皆さんが、虹をくぐれればいいのに、そう願わずにいられません。

決して楽しい映画ではありません、本当はハッピーエンドを用意して撮影されていたそうですが、編集段階で、敢えてハッピーな部分を削除されたそうです。何かその気持ちもわかるなぁ。

平和ボケしたボクの心にガッんと一発お見舞いしてくれた作品。イイとか悪いとかではなく、チャンスがあれば一度ご覧頂きたいですね。平日の夜にもかかわらず、そこそこの動員。上映後、ちょっと言葉が発せられない、重い空気が漂っていたのが印象に残りました。ヌーヴォでの上映は終了してしまいましたが、今後どこかで上映されることも少なくないでしょう。

おしまい。