「パッション」

to be so(御心のままに)


  

この日は、鈴鹿の雨乞岳への遠征を計画していたけれど、天気予報は絶望的。前夜から雨が降り出した。朝起きると、激しく降っている。やっぱり中止だな。来週の週末に順延しよう。山は逃げない。
連休中のニュースで、兵庫県と鳥取県の県境にある氷ノ山で滑落事故があったと伝えていたし、屋久島でもパーティが遭難している。山でムリをしてはいけない。本人はムリをしているつもりではないかもしれないけれど、ちょっとした甘えが冗談ではなく「命取り」になってしまう。ボクの感覚では、氷ノ山は普通に歩けば何でもないコースなのになぁ。まぁ、ボクもムチャすることが多々あるので、偉そうには言えませんけどね。

雨で予定が延びたので、この日は映画ディ。
まず「パッション」。連休中でも、テアトルの火曜はメンズディ。ありがたいことです。朝、9時からの回。ギリギリに着いたら、なんとすでに50名ほどの入り。驚いた!

ボクはずっと宗教とは無関係の学校で教育を受けてきた。成人してからも、どの宗教にも傾注することも帰依することもなかった。だから、キリスト教に関してもほとんど知識が無い。聖書すらまともに読んだことがない(これは、自慢にもならないか)。
そして、今回この映画を観たわけだ。

この映画は、こんなボクのような人ではなく、ある程度キリスト教について知っている(信仰している?)人向けに作られているのは間違いない。だから、細かい説明が一切ない(いや、大きい説明もない)。
全体の流れはもちろん、どのエピソードも聖書に登場する有名なものだそうだ。だけど、ボクはどのお話しも知らない。
「キリスト教にも、迫害を受けた歴史があったんだ。」その程度のことだ。
キリスト教について何も知らない、ボク程度の方は、この映画を観る前にさらっとでもいいから聖書に目を通せば、全く違う角度から楽しめるかもしれない(さらっと目を通すことさえ、難しいかもしれないけど)。

不思議な感じがした。
この映画は、イスラム教圏で上映されることがあるのだろうか? ユダヤ教ではどうか?
でも、日本では宗教に関して奇妙な許容感があり、こうやって上映され、キリスト教徒でもなんでもないボクが観る(お金を払ってまで)。

全然わからないのだけれど、イエスは拘束され、拷問を受け、そして磔の刑に処せられる。
イエスを含むその地方の民は被占領民で、この地を治めているのはローマ人。不思議なのはこの地方の民は一体どういう宗教を信じていたのだろう? イエスを忌み嫌う宗教家はどの神を信じていたの?
この映画の大半を占める、イエスの拷問シーン。そのほとんどは目を背けたくなるようなシーンの連続だし、妙にリアリティがある。彼はどうしてこの責めに耐えることが出来たのだろう?
ただ、この映画は「無知の民(=ボクのような人)」を啓蒙する目的で作られているのではない。だから、この映画を観る人のほとんどは、何故イエスがこの惨い仕打ちを甘受し、耐えるのかをすでに“知っている”のだ。

エンドロールが流れる中、ボクにわかったのは「この映画は自己満足かもしれない」と言うこと。

半分ほど進んだあたりから、場内ではすすり泣く声があちこちから聞こえてきました。わかる人には直視に耐えないシーンの連続なのかもしれない。
興味がおありの方は是非どうぞ。そうでもない方は、ちょっと醒めたシラけた感じになるかもしれません(ボクはそうでした)。
この「パッション」のイスラム版、ユダヤ版も観てみたいな。
もうしばらく、テアトルで上映していると思います。

おしまい。