「涙女」

やっぱり自分のために泣いてしまう


  

こっそり梅田で上映して、行きそこなった「涙女」。三宮でモーニングのみで公開してくれた。う〜ん。最近は梅田で観逃し、週末になると、そんな映画を追いかけて京都へ三宮へ。忙しいことです。
5月に閉館することが決まっている三宮アサヒシネマ。この後何回来ることができるのだろう? ほんとに淋しい限りです。

映画そのものよりも、久し振りに観る大陸の映画。その画面で展開される風景や街並み、人間模様に「あぁ、中国ってこんな国やったな」と思い出してしまう。北京は随分都市化したものの、やっぱり北京。そしてグィの故郷(貴州省?)は、以前のままの大陸。懐かしい、また行きたいような、もういいような...。ちょっと複雑な気持ちが交錯する。

「哭く」というのは、祭壇やお墓の前でめそめそ泣くのだと思っていたけれど、実は「唄い、踊る」ことだった。その唄い方や踊り方、曲に独特のものや感情があり、種類によってランク(料金)が決まっている。大陸の葬式は宗教色が極めて稀薄、いやほとんどなくて、お経や儀式はなく、単に様式が決まっているだけ。しかも、凄くドライで、個人の近親者もあっけらかんとしているのが、何か可笑しい。
考え方が、現実的なんでしょうね。死人に対してどんなに悲しんでも、涙を流しても還って来るわけではない。それなら、取り敢えず形式を整え、生きている人たちはその生の楽しみや、生きていることそのものを享受しなければ損だ。そんな風に捉えているような気がした。
形式を整えるための「哭き」は、お金を払って「哭き女」に任せておけばいいのだ。まぁ、他人に任せて、祭壇の前でマージャンの卓を囲むはどうかとも思うけどね。
形式を整えたり、面子のためにする仕事だから、「哭き女」の仕事は一度軌道に乗りさえすれば、なかなか実入りの良い仕事のようだ。それはそれでちびっと羨ましいような気がしますね。それでも、大変な仕事。

故郷から北京に出てきたものの、旦那は仕事もせず毎日マージャンばかり。
グィは、毎日街に立ち何やら怪しげなVCD(字幕ではDVDになっていたけど...)を売って口に糊を貼っている。そのときの“小道具”に幼い子供を借りるのだが、子供を残したまま親が蒸発してしまう。
おまけに旦那はマージャン仲間とケンカをして怪我を負わせ警察の世話になり投獄されるし、相手からは莫大な治療費を請求される、その上“北京払い”になり、例の子供を伴って故郷へ帰る...。
故郷で待っていたのは、葬儀屋を営むかつての彼氏ヨーミン。ひょんなことから、彼に「哭き」の才能を見出されたグィは「哭き女」を始める...。
お話しそのものはたいしたことはない。他人の不幸を待って、それを商売にする。それはそれで何とも因果な仕事なんだけど、グィがどんどん売れっ子(!)になり、プロ意識を持って仕事に取り組む矢先に。

大陸の人達の日常を垣間見るには、なかなか好材料の映画なのかな。
残念ながら三宮アサヒシネマでの上映は終了してしまいました。チャンスがあれば、軽い気持ちでご覧になってもいいかもしれません。

おしまい。