「ドッグヴィル」

観なくて後悔するのではなく、観てしまったことを後悔する


  

ひょっとしたらこの映画を観逃すと後悔するかもしれない。漏れ聞こえてくる噂がボクをそんな気にさせた。

慌てて上映の終盤を迎えていた映画館に出掛けて行った。ナビオTOHOプレックスの#5。チケットカウンターのお姉ちゃんも理解しているらしく「観難いスクリーンで申し訳ありません」と言っていた。

この映画にそぐわない風体のアベックが、上映開始1時間後ぐらいで出て行った。ボクも観るのを止めて出て行こうかと思った。

難しい言葉は使いたくないけれど、この映画は極めて“前衛的”で“実験的”。
ストーリーを展開していく上で不必要だと思われるものは全て省かれ、スタジオには象徴的なものしか残されていない。すなわち、各家には壁もドアもなく、地面に線が引かれているだけ。ある家にはベッドが置かれ、ある家には机だけが置かれている。その全てが透けて見渡せるような仕掛けになっている。 役者は、この見えない壁に沿って歩き、そこにないドアを開けて屋内に入る。なんとも奇妙な仕掛け。舞台をみているような気もするし、それとは全く別のものをみているような...。しかし、この奇妙なセットで繰り広げられるドラマに次第に慣れていくから、不思議なものだ。
しかも、映画はプロローグと9つの章に分れていて、各章が始まる際にタイトルと簡単な説明が文字で出てくる。それどころか、少し恐ろしげな声で、しょっちゅう説明(ト書き)が入る(正直言ってこの説明は、ボクにはとても煩わしかった)。
ただ、興味深いとは思ったけれど、成功しているとは全く思わなかった。

この映画を語るときに、良心に照らし合わせて「どうして?」などと思ってはいけない。
不条理な展開であっても、そんなものかもしれないと思って観るしかない。

人間の欲望とは何か? いや、この映画で描かれているのは「欲望」ではないかもしれない。人間の持つダークサイドが赤裸々に表現されているのかもしれない。
やらなくてもいい仕事をしてもらっているだけであったのに、それがやがて違うものに変わっていく。優しそうな笑顔の裏に、醜く歪んだ顔が隠れている。これはドッグヴィルの住人にだけあるものではなく、誰の心にも潜んでいる。そんなものだ、誰だって楽をして甘い汁を吸いたいんだ。

結局、こう言うことだ。
人間は自分に関係のないことについては、極めて冷淡(無関心)か、寛容であるかのどちらかだ。しかし、ひとたび、自分の守備範囲というか、利害関係を持った瞬間に、自分に対して、得なのか損なのか、いや友好的に振舞うべきなのか敵対心を持つべきなのかなどを判断する(判断しようとする)。
うわべだけの笑顔に騙されてはいけない。
利用価値があるのかないのか。強いのか弱いのか。そんなことを必死になって探っている、探り合いをしている。利用価値がある弱者は、みんなから徹底的にいたぶられてしまうのだ。

何しろ、この映画ちっとも面白くないのだ。面白くないだけではなく、楽しくもない。
そんなことを思っていたら、この監督さんはあの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を撮ったラース・フォン・トリアーらしい。あの映画もなんとも救いようのないお話しだったなぁ。ラストもなんとも歯切れが悪い。スカッとするには程遠いエンディングだった。

観なくて後悔するのではなく、観てしまったことを後悔する。なんとも不愉快な3時間弱だった。

唯一の救いは、二コール・キッドマンが凄く美しかったこと。いやぁ、ほんとに美人ですねこの人。対して、ポール・ベターニはもうひとつ、この人どんどん魅力を感じなくなっていきます(残念)。

おしまい。