「シーディンの夏」

天灯


  

続けてシネヌーヴォで観たのは台湾の映画「シーディンの夏」。
1時間ほどのこの映画、なんだか懐かしい思いをさせてくれる作品でした。
この映画が何を伝えようとしているのか、それがどうもわからなかった。
でも九条新道のバス停で、なかなか来ないバスを待っている間に、少しずつわかってきた(ような気がする)。

この夏まで、まだ子供で気ままに自分のことだけを考えて生きてきた若者(シャオツー)が、青春の曲がり角にさしかかって、ようやく「優しさ」とか「気遣い」「思い遣り」に気が付く。そんなことが伝えたかったのかな。
それは考え方によっては「大人への入口」に足を踏み込んだ瞬間だったのかもしれない(そう考えると日本の多くの若者はなんとこの入口にさえ達していないことか...、もちろんボクを含めて)。でも、本当は違う意図があったかもしれないけど。
もう一つ印象に残ったのは、あばあさんが普通話(字幕では「北京語」となっていた)を話さずに、台湾語をしゃべるところ。そして、彼女は何か日本語もぽろっと言ったような気がする。さらに、先生にキモノを着付けるのには、ちょっと驚いた!

シャオツーは、この夏で脱皮したのか。大人の入り口に達したのか。それはどうかわからない。
青春時代って、いろんな意味で「大人と子供の中間」だ。本人次第でどっちについても構わない。だけど本人はいろんなシーンで「自分も大人になったんやな」と感じているハズだ。その一つが、シャオツーにとっては、この夏の出来事だったのかな? もしそうだとしたら、なんと素敵な「ひと夏の想い出」なんだろう。

基本的にはずっと現実的な視線でストーリーは展開して行くんだけど、ただ一つ。「そうか、こんな習慣があるのか」と唸ってしまうような仕掛けが用意されています。だから、エンドロールが始まってもあわてて席を立たずに、最後までゆっくり席に座ってご覧になってくださいね。
これが、この地方独特のものなのか、それとも中国(台湾?)で広く行われているのかは知らないけれど、中国(台湾)の人たちも意外とロマンチックなんやなぁ、と思ってしまいました。

でも、この映画を観終わってしばらく過ぎた今になって思い返してみると、もう一つパンチが足りなかったような気もしてきました。
身体だけはもう大きくて、外見は大人であるシャオツーが、このひと夏でようやく自分以外の人に対しての「優しさ」に気が付くなんて、ちょっと遅すぎるのではないか。そんなことを感じた。
いや、そうじゃないのか。本当は、もっともっと繊細な心の機微が描きたかったんだろう。シャオツーはこの夏に初めて「思いやりたい」と思える対象に出合った。彼女との出逢いによって、初めて目を大きく開かされたんだな。きっと、そういうことなんだ。
ふと何年か前に観た「いちばん美しい夏」を想い出しました。

誰もが楽しめる作品ではないだろうし、人気の俳優が出ているわけでもない。でも、観ても損のない映画だと思います。
土曜のレイト・ショー。10数名ほどの入りと、いつもの、ヌーヴォらしい雰囲気でした。
まだ、上映しているのかな? 最近はめっきり筆が遅くなりご紹介が遅れて申し訳ございません。

次回は「再見/ツァイツェン〜また逢う日まで」をご紹介する予定です。

おしまい。