「ボウリング・フォー・コロバイン」

自分の頭で考えろ


  

ほんまに「ようやく」って感じで観てきました。「ボウリング・フォー・コロバイン」。まだ寒い頃に公開され、あれよあれよと言っている間に随分時間が経ちました。予告編だけは何十回も見せられたのにね、確かに何処かで観られるという油断もあった。そしてとうとうお尻に火がつきかけて、動物園前のシネフェスタで観ることになりました。

どうして、この映画がそんなにロングで公開され続けているのか。アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を獲ったから?
正直言って、そんなに凄い作品だとは思わなかった。
ドキュメンタリーという意味なら「エイブル」の方がインパクトはあったし、「プロミス」の方が胸に迫るものがあったように思う。それでも、この映画がこれだけヒットしているのは凄いことだ。
この作品の特徴は、結論や答えを観客の前に提示していないことだと思った。 例えば、米国人が銃を所持する理由を、人種差別、マスコミが流すニュースの恣意的な選別などではないかと映画の中で提示はするが、結論は言わない。銃で事件が起こるのは、誰かが歌う音楽のせいなのか、それともアニメのせいなのか、銃や弾をどこででも手軽に買える流通が原因なのか? これも決して決めつけてはいない。
押し付けがましい正論の答えを前面に出して、製作者の意見をがなりたてない。この映画を観ている人たちに「少しは考えろ」と言っているような気がした。その姿勢には、なかなか好感を覚えた。

そうだ。最近はあんまり物事を考えなくなっている。だから、帰り道、環状線や阪急の中で、この映画について考えた。
観るまではマイケル・ムーアという肥えたおっさんの意見を拝聴する映画だと思っていた(それが、映画館になかなか足が向かなかった理由の一つ)。でも、珍しく強い自己主張をしない映画だった。だからこそ、この映画がここまでヒットしたのかもしれない。
アメリカは何でも自由に物事を発言できる国なんだけど、その裏にはカネや権力が密接に関わっている。すなわち、何でも言えるんだけど、それがメディアに取り上げられたり、多くの人の耳に届くようにするには、貧乏人ではあかんということ。そんなことがぼんやりとわかったような気がした。

銃を自由に所持出来ることが、いいことなのか悪いことなのか、ボクにはすぐ判断できないけれど、アメリカにおける銃が原因の死亡者が桁違いに多いのは確か。そのことをアメリカ国民と合衆国政府は真剣に考える時が来ているのではないでしょうか。自分の国のこともまともに論議出来ない国に「世界の番人」を任せてしまっていいのか?

映画そのものは、冒頭にも書いたけど大した事はない。ただ、この映画がタイミングとして良かった。そして、何かのきっかけになったのは確かです。
もうしばらくはいろんなところで上映されているでしょうし、今後も各種の映画祭などで上映されることも多いと思います。チャンスがあればぜひご覧下さい。

おしまい。