「まぼろし」

壮絶ですらある


  

同じ新開地でも今度は北へ。アートビレッジセンターがある場所はかつての花街で、北側は今も昔も庶民の街。湊川公園から北側はずらりとお店が並ぶ商店街になっている。こんな賑やかな通りは歩いていても楽しい。前回ここへ来たのは桃の節句近辺だったからもう三カ月以上も前。そしてこの日は「父の日」。

半年ほど前に公開され観ないままになっていた「まぼろし」を観る。
劇場には少し早めに着いたので、ロビーで本を読みながら待つ。

2001年のカンヌでグランプリを獲ったイタリア映画「息子の部屋」は、息子を亡くした家族の喪失感を繊細に描いていた。そしてこの「まぼろし」は子供のいない夫婦、主人が死んでしまう。その喪失感を超越した部分で描ききっている。同じような題材を扱いながら、まるで違う結末が用意されている。
ある意味、このお話しは壮絶ですらある。そして繊細にして難解。
夫婦とは、愛とは、そして死とは? さまざまな問い掛けを投げかけてくる作品。できれば、独りで静かに余韻を楽しみたい。そんな映画だと思う。
監督は「8人の女たち」のフランソワ・オゾン。

大学で教鞭をとっているマリーは旦那のジャンと南仏の別荘へヴァカンスへやって来る。日頃忙しくて話す機会の少ない二人。マリーは外交家、ジャンは家で仕事をすることが多く、外出は好きではないようだ。そろそろ中年から初老へさしかかりつつある二人。このヴァカンスは二人きりで過ごす予定。
別荘へ着いた翌日、二人は人気(ひとけ)がない海岸へ出掛ける。マリーはジャンにオイルを塗って貰い日光浴を楽しむ。ジャンは「海に入る」と言い残して...。
そのままジャンは居なくなってしまった。ヘリコプターまで動員して捜索したが、ジャンの姿はどこにもない。マリーは二人で来た道を、独りでパリへ戻る。
マリーはジャンは行方不明なのだと知っている。でも、それは言葉として「知っている」だけ。ある日、マリーは親しい友人たちが開いてくれた夕食会から自宅に戻ってくる。ドアを開けるとそこには彼女の帰りを待つジャンの姿が...。
その日から、ことあるごとにジャンは現れるようになった。彼女はそのジャンの姿は自分の妄想が生んだ「まぼろし」だとわかっている。でも、わかっていても「ジャンは旅行中なのだ」と思い込んでいる。

マリーはジャンの死を「知って」いる。しかし、マリーには彼の死を受け入れられない。その思いの狭間で揺れ動くマリーの葛藤はまさに「壮絶」。
だが、端から見た彼女は心の平衡を失ってはいない。
マリーは編集者の男から求愛される。そして、それを受け入れてしまうのだが、マリーは果たしてこの男を何と思っていたのか。
マリーはふとしたきっかけから、自分が愛していたと思っていたジャンのことを実は何も知らない。いや、もっと言ってしまえば「知ろうとしなかった」ことを思い知らさてしまう。

彼女が知っていたジャンは「重さ」だけだったのか...

ラストでマリーが駈けていった先には、ジャンが待っていたと思いたい...

おしまい。