「ハッピー・フューネラル」

笑える葬式


  

ゴールデンウィーク前半に行った韓国から帰ってきて、なんだか「お疲れモード」。もう10日ほど過ぎているのになぁ。それだけ雪岳山がハードだったということなんでしょうか?
そんなこんなで、帰ってから観た映画はこれから紹介する一本だけ。「シカゴ」はまだまだ観ていないし、「青の稲妻」「歓楽通り」はうっかり見逃してしまった。あかんなぁ。来週からはレスリーチャンの追悼上映も始まることだし、何本か観なくては...。

さてこの「ハッピー・フューネラル」。どんな映画かと思っていたら「幸せなお葬式」という意味なんですね。なるほど。
この映画の監督・馮小剛(フォンシャオガン)については何も知らないけれど、「大陸でも垢抜けた映画を作れるようになったんだなぁ」というのが正直な感想。これはもう従来の大陸の作品とは一線を画する映画だと思う。
どうしてそう思うのかと言うと、まず生活感が極めて希薄なこと。対人関係にベタベタしたところが無いこと。そして、笑いの質が妙に軽いところ、画面が明るいところなどが挙げられる。
今までの大陸の作品は、妙な部分でリァリティさを追求して、濃厚な生活感(狭い住空間や食事)が画面から溢れ出んばかりだった。観る人はこのことで親近感を持っていたかもしれないけれど、あまり「夢」は見ることが出来なかったんじゃないかな。でも、この作品には出るには出てくるけどそんなに貧しさは感じられない生活シーンを見せるだけで、不要な部分はスパっとカットしている。出てくる食事のシーンは一つを除いて裕福さや優雅さを感じさせるものばかり(西洋人が演じているせいもあるけど)。
たとえ自分には縁遠いものであっても、映画を観るお客さんに夢を見てもらうことは大切だと思う。きっと、今までは資本主義を礼讃するような消費主義や快楽至上主義は描きたくても描けなかったんだろうけどね。資本家やお金持ちが偉いのではなく、貧しいながらも働く農民や労働者が一番だという絵柄を要求されていたのかもしれませんね。
※なんだか、最近「能書き」をたれることが多くなったなぁ。スイマセン。

まぁ、それはともかく、軽快なテンポでストーリーは展開する。
映画会社を「下崗(=リストラ)」されたカメラマン、ヨーヨー( 葛優・グォヨウ )が北京でアメリカ人の「巨匠」と呼ばれる監督が撮影している映画のメイキングフィルムの撮影に採用される。24時間べったりで監督を撮影し続ける契約だ。
しかし、この巨匠タイラー(ドナルド・サザーランド)、現在撮影しているこの映画にすっかり意欲を失っている。故宮を借り膨大な人数のエキストラを使っての撮影も遅々として進まない(進めない?)。
そんな様子をバカ正直に撮影し続けるヨーヨー。いつもべったり一緒だから、タイラーとも彼の助手のルーシー(ロザムンドクワン・關之琳)とも次第に打ち解けていく。
やがてタイラーはこの映画をホッポリ出してしまう。困ったプロデューサーは若手のディレクターをゴーストで起用して、なんとかこの映画を完成させようと画策する。
そんなとき、降板を覚悟して葬式についてヨーヨー話していたタイラーは、フィルムがまわっているのを確認して、ヨーヨーをカメラの前に呼び、彼に自分の腕時計を進呈し、自分が死んだらその葬式を「笑える葬式(ハッピー・フューネラル)」として執行するよう、その一切をヨーヨーに任せると遺言めいた言葉を残す。その後、急に発作を起こして崩れるように倒れてしまう。
ヨーヨーはタイラーの葬式を仕切るために、旧友のイベントプロモーターを巻き込んで動き始める。しかし、その費用にあてにしていたタイラーの資産がほぼ「0」なのを知る。
そこで思い付いたのが、この葬儀をイベントとして扱い、広告を募り、その収入を葬儀の費用に充てようと画策するのだが...。

グォヨウはなかなか芝居が上手い役者さん。飄々としたカメラマンの顔と葬儀のために目まぐるしく動き回る経営者(?)の顔はまるで別。また、以前の映画で見せていた顔とも全然違う。
ルーシー演じるロザムンドクワンは初めて観る方だが、この人もいい。もう少し若い方なら、ボクも熱くなっていたかもしれない!

湿っぽくなっても不思議ではないお葬式を題材にしながら、そんなことは微塵も無く、カラっとした楽しい作品(まぁ当然か)。
まずまずのおすすめですが、残念ながら大阪での上映(動物園前シネフェスタ)は終了してしまいました。

もしこの後観る予定の「ミッシング・ガン」もこんなタッチなら、この映画は大陸映画の大きなターニングポイントを刻む映画の一つとして記憶してもいい作品かもしれないな。

おしまい。