「ピノッキオ」

やっかましい映画なんだけど...


  

さんざん迷った末に「ピノッキオ」を観に行く。

この作品を一言で表現するなら「やかましい映画」だ。
ベニーニ扮するピノッキオが、ジェペット爺さんの手によってこの世に生を受けた(?)瞬間から、このピノッキオはひたすらに喋り続ける。それは「うるさい」ではなく、まさしく「やかましい」のだ。

この映画は、受け入れられるか、駄目なのかどちらかにキッパリ別れると言われている。
世代の差はあれ、誰もがピノキオと聞いて思い浮かべるのは、愛くるしい表情を浮かべたディズニーのアニメに出てくるピノキオだろう(ひょっとして違ったりして?)。このアニメのピノキオは当然まだ子供で、彼が学校へ行くとか、勉強が嫌だと言っても、自然に頷ける。
しかし、もう50才のロベルト・ベニーニが演じるこの実写版ピノッキオは、どこか違和感を覚えずにはおれない。でも、ボクにはベニーニ=ピノッキオは充分許容範囲。
映画を観終わった今では、この映画がベニーニをどう見るかと言う点だけで語られるのはかわいそうだと思った。
もちろん、この映画はベニーニのワンマンショー的な作品であるのは間違いではないのだけど...。

「ピノッキオ」という童話をちゃんと知っている人はどれぐらいいるんだろう? そんなことをふと考えてしまった。
ボクはこの年になるまでちゃんとは知らなかった。この映画を観なければ知ることもなかっただろう。そして、今回ちゃんと知った「ピノッキオ」というお話し、実に耳が痛いストーリーなのだ。
ストーリーは強引なまでのスピードで突き進んでいく。そのテンポの良さに、この映画は子供向けに作られたのではないと思えたほどだ。そのリズムはまるでベニーニの喋りの速さに合わせているよう。
そして、子供向けにしておくにはもったいないほど、示唆と教示に富んだ想像以上に面白い物語りだと言える。

どんなピンチの時も助けてくれるわけではないが、いつもピノッキオを信じて手を差し伸べてくれる青い妖精さん(ニコレッタ・ブラスキ)。時折現れてはピノッキオを諫めるコオロギ(ペッペ・バーラ)。ピノッキオを認めてくれてはいるが、会うたびにピノッキオを堕落の道へと誘い込むルシーニョロ(キム・ロッシ・スチュアート)。そして、小舟に乗ってたとえ荒波の向こうへでもピノッキオを探しに行こうとする無償の愛を彼に注ぐジェペット爺さん、などなど...。
この物語りには、愛が満ち、やさしさがあふれ、欺瞞があり、堕落があり、規律があり、誘惑があり、労働があり、快楽がある。およそ人間の住むこの世界にごまんとある感情で満ちあふれている。
そして、おそらくこんな風に振る舞えたらと誰しも思ってしまうような天真爛漫なピノッキオが、どんどんいろんなことをためらいもなく実行して見せてくれる。その結果、罰をうけるのもピノッキオだけど、彼はとうとう最後まで純真さを失わない。
ある意味、ピノッキオはこの映画を観ている人達それぞれを投影している「影」なのかもしれない、映画を観ている間にふとそんなことを考えてしまいました。

登場する人物がどの人もツボを押さえた素晴らしい演技を見せてくれる。
もし、イタリア語を理解できたら、もっと面白かったに違いない!
なのに、ピノキオのイメージが違うと言うだけでこの映画を否定してしまうのは、余りにも失礼でもったいないことだと思うんだけど、皆さんはどう思われますか?

ただ、ひとつ残念だったのは、このピノッキオがどうして人間になりたかったのか、それがほとんど(全く?)観ているこちらには伝わって来なかった。この部分はこの物語りの根幹をなす部分だけに大事に表現してもらいたかったな。

おしまい。