「裸足の1500マイル」

娘と母をフェンスが結ぶ


  

淡々としていながらずーんとお腹に応える。そして考えさせられる映画だ。
去年観た「月のひつじ」と言いこの「裸足の1500マイル」と言い、オーストラリアの映画はあなどれないぞ! 「マッド・マックス」だけがオーストラリアの映画じゃない(古いか?)。

オーストラリアには人種問題は無いもんだと勝手に思い込んでいた。
でも、考えてみたら豪州だってもともと誰かが住んでいた土地に、勝手に白人がどんどん入植(流刑地だったかな?)したんだから、先住民(アボリジニ)との間で軋轢はあったはず。白人が開拓を始めてからの豪州は、白人主導で開発が進められたのだから、人種問題も存在していたのも当然だね。そういう意味では目を開かせてくれる作品。

1930年代のお話し。当時の豪州では白人とアボリジニの間に生まれた混血児を母親(アボリジニの集落)から隔離して、文明生活に馴染ませようという“隔離同化政策”が取られていた。白人の血を引く人間には石器時代の生活ではなく、教育を施し、文明の下で育てようという暖かい支援活動だ。でも、それは白人の社会から見たご都合主義以外の何物でもなく、引き裂かれる母と子供の思いは一顧だにされていない。
そしてまた、この隔離政策によって文明世界に引き入れられた子供たちの、あまり愉快ではない行く末もこの映画の中盤以降で明示される。

主人公の少女モリーは14歳。まだ幼い妹と従姉妹の三人は仲良くアボリジニの村で母親と暮らしていたが、この三人の子供たちが白人との混血児だとわかり、政府の手によって母親の手から隔離されてしまう。
三人が連れて行かれたのは、彼女たちが住んでいたジガロングから南へ1,900キロも離れた施設。そこには彼女と同じ境遇の混血児たちが集められていたにだ。
クルマと汽車に長時間揺られて護送された三人は、この施設での生活に馴染めない。特に14歳にまで成長していたモリーは、自分が受けたこの理不尽な隔離に納得が行かない。そしてとうとう妹と従姉妹を連れてこの施設から脱走を試みる。

この映画の中には“隔離同化政策”が「悪い」という表現は一度も出てこない。そう思っている人がいたかもしれないけれど、口に出してそれを言う人はいなかった。それにこの政策を推し進める政府の役人たちには「自分が悪い」という感覚をまるで持っていない。それどころか「アボリジニのためにやっている」という感覚なのだ。
モリーたち三人の道中で、彼女たちを助けたのはアボリジニだけではなかったのがせめてもの救いか。そして「追跡者」が最後に見せる表情にも、何故か妙に納得させられる。

脱走を試みたモリーの真意は、隔離政策に抗議してのものなのか、それとも単に母が恋しく会いたいがためなのかははっきりしない(多分後者だと思うんだけど)。
彼女の意思の強固さとリーダーシップには正直驚かされる。クルマと汽車を使ってさえあれだけ長時間かかった距離を自分の足で歩き通そうと言うのだから。そして、ウサギよけのフェンスに沿って、母が待つジガロングまでおよそ2,400キロを歩き通す。
モリーの常に前を見つづける澄んだ瞳が印象的。

正直言って、極力押さえた演出は感動を削ぐ。でも、フィクションではなく実話だからこそ持つ、ストーリーの重厚さに素直に感動してもいいんじゃないかな。
なんとも言えない重苦しいこのストーリーを心理描写を極力抑えて、極めて客観的(傍観的?)な視線で捉えている。したがって、この映画に対する感想は観た人によってことなるかもしれない。ただ、言えるのは押し付けられた感想では無いと言うことだろう。この映画を観た人は、何かを考えざるを得ないのだ。その点でこの映画は非常に「巧い!」。

この日は朝から結構強い雨が降っていた。それにも関わらず、公開初日、土曜日、そして映画の日が重なり、初回上映はほぼ満席でした。ボクは少し早く行っていたので、最前列の真中というベストの座席で鑑賞できました。この席って、土日の方が確保しやすいんだよな、何故か。
まずまずのオススメ。ただし、ぼんやりと観てたら何でもない映画になってしまいますよ。
少なくとも、3/28までは新梅田シティのシネ・リーブル梅田で上映しています。

おしまい。