「スプリング 春へ」

戦争の虚しさは...


  

1980年からはじまったイラン・イラク戦争は、1988年7月停戦が成立した。
極東の日本に住んでいるともうとっくに忘れてしまっているような戦争だけど、この映画はその戦時下のイランが舞台になっている。

一人の少年が戦火を逃れて、老人が一人住む森へ疎開してくる。
最初はこの老人が祖父で少年が孫なのかと思った。しかしやがて、この二人の間には血縁関係が無いのがわかる。少年は戦闘が間近で行われている街で家族と一緒にイラク軍機の攻撃を受け負傷。後方の街へ送られ、そこのセンターでこの老人と一緒に住むことに決まったのだ。従って、この少年の両親と妹が無事なのかどうかは、この映画を観ているボクたちにはわからない(この少年が一人で後方に送られたことが何か嫌な暗示のような気がしないでもないけど...)。
老人が住むのは森の中だ。しかもこの「森」がとてつもなく深く、静か。そしてそぼ降る雨によって湿っている。川のそばに建つ老人の家には、訪ねてくる人も遊びにくる人もいない。ここでの日々の生活に慣れるはずのない少年は、淋しくて仕方が無い。それに、季節は冬。寒くて寒くて仕方が無い。戦火のショックとホームシック。少年はみるみる元気をなくしていく。
この森での生活と外界をつなぐ唯一の手段はこの家にあるラジオだけだ。ラジオは刻々と戦況を伝え、兵士や市民の消息を知らせる。
少年は夢を見てはうなされる。少年が見る夢は、自分の家にいて、空襲を受けて両親と妹と一緒に自宅地下にある防空壕に逃げ込む夢だ。その夢は、4人で防空壕に逃げ込み、敵の爆弾が炸裂する轟音でいつも終わるのだ。
老人はそんな少年のことを心配して、ついにラジオを地下室に隠してしまうのだが...。

森では何も起こらない。
老人は紅茶を飲み、少年に話しかける。しかし、少年の表情は硬く虚ろだ。
ある日、老人は少年を伴って海岸まで足を伸ばす。海辺で火を起こし二人で熱い紅茶を飲む。老人は少年に語りかける「春になるとこの海岸線はカモの大群がやって来てこの浜辺を真っ白に埋め尽くす、それは見事な光景だよ。春になったらもう一度ここへ一緒に来てカモを見よう」と。

何も起こらないように見えた森でもいろんなことが起こり始める。
老人が留守をして、少年が目を離しているスキに小屋が火事になりかけてしまい、老人から大目玉を喰らう。森を散策しているうちに見知らぬ青年に出会う。彼は戦地から休暇で故郷のこの森に帰ってきていたのだ、彼の口から聞く自分の街の様子に少年は小さな胸を痛める。この青年が休暇を終え部隊に戻る日、少年は彼を駅まで見送りに行く。ほんとは彼と一緒に街まで帰りたかったのだけれど...。
その帰り道、森では急に天気が変わって嵐になる。まだ森に慣れきっていない少年は道に迷ってしまう。少年の帰りが遅いのを心配した老人は嵐の中、カンテラを手に少年を迎えに行くのだが、激しい嵐の前に森の様子は激変している。大きな声を張り上げて少年の名前を呼びかける老人。ずぶ濡れになって途方に暮れていた少年の耳にようやく老人の叫び声が届く。そして、かすかにカンテラの明かりが見えてきた!

この森に住む二人にとって、戦争とは何なのか、そして幸せとは何なのか。
そんな呼びかけが、じんわりと観ているこちらの胸にしみ込んでくる。命題を大上段に掲げた反戦映画ではない。日々の暮らしの中で、引き受けた子供の世話を精一杯焼く老人の姿に胸が打たれる。そして彼にとって戦争の終結はこの少年との別れを意味するのかもしれない。そんなことをふと思った。
雨に打たれて道に迷った少年は熱を出して寝込んでしまう。そんな彼に「春になったら一緒にカモを見に行く約束をしたじゃないか!」と励ます老人の姿に不覚にも目頭が熱くなりました。

残念ながら上映はもう終了してしまいました。
このジャリリ監督は日本でも人気がある監督なので、近いうちにリバイバルかどこかの映画祭で上映されることがあると思います。静かで地味な作品ですが、チャンスがあれば是非ご覧いただきたいですね。

おしまい。