「少年の誘惑」

少年時代の甘酸っぱい想い出


  

手許に置いておきたい。そんなかわいい作品。

ただ、中国人の監督が作った映画には違いないが、日本の資本が入っていなくてもこんな作品になったのだろうか? 
ボクには日本人の意向が色濃く反映された作品のような気がして仕方が無い。それはちょっと「読み」すぎかな。

時代背景は若干異なるが、舞台といい(大人のいない北京の夏休み)、テーマといい(少年が迎える思春期の心の揺れ)、チアン・ウエン監督の「太陽の少年」と酷似していると言える。
でも「少年の誘惑」は背景の設定が恐ろしくあやふやなのだ。ダーシャオもシャーダンの家も大人の家族は一切出てこないし、職業も明示されず「出張に行っている」の一言で片付けられている。中国では日本以上に親の職業(社会的地位)は子供の世界でも幅を利かせているのだ。「太陽の少年」では主人公の親は軍の高級将校だった。それどころか、大人は一切この映画では姿を見せないのだ(例外は担任の先生くらいかな)。きっと文化大革命の嵐が吹き荒れて、大人たちは地方へ「下放」されているという設定なんだろうけれど、それはある程度中国に詳しくないと分からない。
また、その時代を示すエピソードが一切省かれているのも奇妙だ。ラジオから音が流れてはいるが、それは京劇か何かで、流行り歌ではなかった。ラジオからその当時にヒットした曲を流したり、時代を象徴する事件のニュースを聞かせたり、あるいはそんな記事が載っている新聞をちょこっと画面で捕らえたり、街角に張り紙や壁新聞があっても不思議ではない。それらによって、観客は「あぁ、この時代か」と共感を覚えるものだろう。
でも、この映画には時代を特定するものは一切無い。テレビはまだ家庭には入っておらず、男の子はランニングシャツで走り回り、女の子はゴム跳びをして遊ぶ。そんな大雑把な時代設定がなされているだけだ(これじゃぁ、つい最近まで含まれるョ)。幅広い人に共感と郷愁をおぼえてもらおうという意図なのかもしれないけど...。
また、少年たちが路地裏や野原で遊ぶ遊びの紹介の仕方が、ボクにはどうもしっくり来なかった。なんかとって付けたような気がしてね。北京の胡同に住む少年が野原や小川で遊んだんだろうか?
もし、監督が自分の少年時代の思い出をスケッチしているのなら、もっと「こんな時代だった!」という自己主張があってしかるべきだと思うんですけど、どんなものでしょう?

まぁ、そんなボクが感じた違和感は置いておいて...

年上の女性に憧れる。
誰でも一度は経験する、少年時代の思い出をダーシャオの目を借りて描かれている作品だ。この作品の面白いところは、この憧れをダーシャオは一切セリフで口にしないことだ。
彼が憧れているのは、近所に住む大親友のシャーダンの姉・ウェンウェン。一緒に遊ぼうとシャーダンを誘いに行くたびに、ウェンウェンの何気ない仕草に見とれてしまう。仕草だけではなく、子供からオンナへ変貌しつつある彼女の容姿にも心を奪われているのだ。
もちろん、このことをシャーダンには気付かれたくないし、ましてやウェンウェンには感付かれたくはない。 ダーシャオは何かしたい(ウェンウェンと話しがしたいとか抱きつきたいとか)と思っているのではなく、ただただ憧れているところがかわいいし、気持ちがよくわかる(このあたりがモニカ・ベルッチにモーションをかけるイタリアの少年とは違ってウブなところだねぇ)。
何かと理由をつけてぐずぐずしては、そのチャンスにウェンウェンが着替えていたり、お風呂に入っているところを息を殺して覗き見する。そんなダーシャオに思わず共感を覚えてしまう。

一方、ビー玉やメンコで一生懸命遊び、野原で泥遊びをし、凧を上げる。そんな気持ちの切り替えの早さにはうらやましささえ感じてしまいます。
ボクにとっては、もうとうの昔に通り過ぎてしまった少年時代の甘酸っぱい思い出。もうそんなことは思い出すことさえなかったのに、それを突然目の前に差し出された、そんな感じの映画です。

タオ・ロン(ウェンウェン)が微妙な年頃のお姉さんを好演しています。今後に期待ですね。

会場は九条のシネ・ヌーヴォ。モーニングショウのみですが、もうしばらくは上映しているはずです。ボクは初日に行ってきました。40名ほどの入りと盛況でした。
この映画、女性が見たときにはどうなんでしょうね。ちょっと興味があります。

おしまい。