「アイ・アム・サム」

ルーシーに降参!


  

ワールドカップもたけなわ。日本代表も善戦してとうとう1勝。ロシア戦の勝利は歴史に残る勝利ですね。稲本はこれで日本サッカー史上に残るプレーヤーになりました。絵になる男です。あぁ、これが稲本ではなく久保のゴールやったらなぁ...。
さぁ、次はチュニジア、会場は大阪。がっちり戦って、決勝トーナメントへ進出してもらいたいものいです。
今日は、梅田付近うろうろしていたら、イングランドのサポーターの方でしょうか、イングランドのユニホームを着て、大きい荷物を持った外人さんをたくさん見かけました。彼らを目にして、なんか初めてワールドカップを身近に感じました。今日見かけた人たちのうち何人が「フーリガン」なのかな?

さて、今回ご紹介するのいは「アイ・アム・サム」。
先週末に封切りされたばかりの作品ですね。主演のショー・ペンはこの作品でアカデミー賞の主演男優賞にノミネートされました(受賞は逃したけれど)。
前作の「ギター弾きの恋」では身勝手な男を演じた彼ですが、今回はがらっと変わって、知的障害を持つ父親を文字通り「熱演」しています。彼の演技を見るだけでも、この映画を映画館へ観に行く価値があるかもしれません。
でも、この映画でボクを魅了したのはショー・ペンではなく、彼の7才の娘・ルーシー(ダコタ・ファニング)。あどけなくてかわいいだけではなく、知的な芯の強さを感じさせます。まさに天才子役です。もう、なんとも言えません。かわいいルーシーも観てくださいね。こんな娘ならいてもいいかな、なんて思ってしまいます。
そして、もう一つの注目点は全編に亘ってビートルズのナンバーが流れていることです。それもオリジナルではなく、誰かがカバーした曲ばかり。これはサントラを買わねば。それも、唐突に流れてくるのではなく、ちゃんと映画のストーリーに合致させてあります。娘の名前ルーシーだって、ビートルズにちなんでいるのです。

知的水準が7才のままで止まってしまったサム。同居していたルーシーの母親は出産した病院からの退院のどさくさに紛れて逐電してしまう。サムはルーシーを一人で育て始めるのだ。
だが、サム一人でルーシーを育てたわけではない。同じような障害を持つサムの仲間やサムの隣人からの暖かい援助があってこそ、ルーシーは大きくなることが出来たのだ。
しかし、この映画を観て一番感じることは、米国と日本の障害者に対するスタンスの違いだ。日本では障害者が働くことができる職場ってどこだろう? あるんだろうか? また、障害者が一人で借りることが出来る部屋なんてあるの? きっと無いだろうな。だから、障害者である父親(サム)が一人で赤ん坊を育てるなんて、ちょっと考えられないよね。でも、この映画ではサムが子供を育てていることが「極めて特殊な事柄」として描かれているわけではない。「ちょっと変わっている」って程度の感じだ。このあたりに日米の差を感じますよね。

この純粋なサムとルーシーの親子関係が微妙に変わってくるのは、ルーシーが「自分の父親が、友達のお父さんとはちょっと違う」と感じ初めて来た頃から...。自分の父親を超えたくないという思いから、ルーシーは自ら学習を拒んだりしてしまう。
そして、ルーシーの7才の誕生パーティの日にちょっとした出来事から、サムとルーシーは当局から目を付けられ、とうとうこの親子は引き離され、ルーシーは施設に入れられてしまう。
ここから映画は後半に入り、大きく動き始める。この裁判のシーンこそがこの映画の見せ所なのかもしれないけれど、ボクには美人で金持ちの女性弁護士のリタ(ミシェル・ファイファー)のキャラクターは、ちょっと蛇足のように思えた。エピソードはそのままでもいいけれど、リタがサムの弁護を受け持つことになって、彼女自身が何か変わったのか、それが全く見えて来なかったからだ。ちょっと惜しいね。
サムの里親(ローラ・ダーン)はなかなか良かったです(この映画では、ちょっと損な役回りだったけどね)。

結局、ルーシーにとって、どうすることが彼女にとってベストなのかは、この映画の結末からは見えては来ない。サムと一緒で良かったのか、それとも中産階級で健常者の里親と暮らして行くのが長い目で見れば...。その判断は観る人の判断に委ねられているようです。

泉の広場を上がった梅田ピカデリーで上映中。封切り3日目ということもあり、月曜の夜でしたが100名以上は入っていたでしょうか。盛況です。びっくりしました。そのほとんどは女性の何人か組みでお越しになっているようでした。「ここで泣いてください」という決めのシーンは特に用意されてはいないのですが、涙腺が弱い人は要・注意ですよ。

おしまい。

※この文章は、火曜の夜に書き始めたので、冒頭のネタがちょっと古いですが、まぁ見逃してください!