「アレクセイと泉」

静かな抗議


  

池袋で「情事」の強烈なパンチを浴びて、ふらふらしながらハシゴした先は東中野。ここにあるBOX東中野には昨年も来たことがある。時間がぎりぎりだったので、映画館に着いたときには既に予告編の上映が始まっていた。薄暗い場内には五分ほど(もう少し多かったかな)の入り。地味な作品なのに賑わっている。運良く端っこに席が空いていた。

ボクの頭の中ではもう遙かかなたの出来事で、もう忘れていた。旧ソ連で起こったチェルノブイリ原子力発電所の事故。1986年4月のことだ。
この事故で被曝した村。この村にある泉がこの映画の主人公だ。
この清らかな水を吐き出す泉は、こんこんと、ほんとにこんこんと水を湧きだしている。事故が起こってからも起こる前と同じように。

ベラルーシにあるこの村・ブジシチェはチェルノブイリから180キロ離れている。事故の後、役所も医者も住民にこの村から立ち退くように勧告した。600人いたこの村の住民の多くはこの勧めに応じて移転した。現在もこのブジシチェに残っているのは55人の老人とアレクセイという若者だけになり。地図からも抹消されたという。
アレクセイはこうつぶやく。
「老人達がこの村に残ったわけは、ここに泉があるから。こんなきれいな水を他所のどこで飲めるのか」

この村では畑でも森にも、学校の跡地からでも放射能が高いレベルで検出される。でも、この泉から湧き出る水からは全く放射能が検出されないという。村人たちはその理由を「この水は百年かかって地表に湧き出てくるからだ」と言う。

この村での生活は泉を中心に行われている。村人は天秤棒とブリキのバケツをふたつ下げて泉にやってくる。この水を汲み家に持ち帰る。洗濯や洗い物もここで行うのだ。そんな静かな村人たちの営みが淡々とアレクセイの口から語られる。
自給自足のこの村ではお金はあまり必要ないのだと言う。事実、春には麦を収穫し、夏にはジャガイモを一年分収穫するのだ。馬を養い、必要な時にはガチョウが食卓に上る。
お祭りには隣り村まで馬車に乗って出掛けたり、自分で編んだ籠を売りに市場に出したりする。

この村には原発事故の影響はまるでないように見える。

でも、みんなは知っている。老人ばかりのこの村は、この美しい泉を残していつか消え去ることを。
泉のほとりにある洗濯場の木で組んだ足場がずいぶん傷んでいる。女たちは男に修理を要求する。年老いた男たちは重い腰を上げて新しい足場を作ることにした。
まず、森へ行き木を切り出すところから始まるのだ。これには驚いた。男たちは木を選び切り倒す。そして、斧と鋸だけで、なんとも鮮やかな手つきで全てをやり遂げてしまう。
だが、この技術も経験もここまでだ。誰にも受け継がれない。そして、泉の修繕作業も今回が最後だと、誰も口には出さないけど、皆が知っているのだ。

原発事故のおかげで、この村は泉を残して消えるのだ。

何も声高に叫ぶだけが抗議ではない。こんな静かで考えさせられる抗議もあるのだ。
関西では初夏にテアトル梅田で上映の予定があるようです。

おしまい。