「ブラックボード/背負う人」

背負っているのは黒板だけではない


  

すっかり「梅雨」本番のこのごろとなりました。みなさん、お元気ですか? 私は例の「ソウル風邪」もようやく完治し、このじめじめとした蒸し暑さにも負けず、元気にしています。
でも今度は「ソウル風邪」ではなく「中華圏に行きたい病」がむくむくと頭をもたげてきており、誰かが「上海と杭州へ行く」とか「香港へ遊びに行く」なんて耳にしただけで、体中が震え出す始末です。
中国や台湾に行って何がしたいというワケではないのですが、行ってあの独特の空気に包まれて息がしてみたい。それだけのことを切に願っているのです。「重症やね」。
私が好きなチャン・ツィイーが、今韓国映画の撮影に入っています。秋に韓国で公開されるらしいので、この映画を観に、秋には韓国へ行かねばなりませんね。

さて、今回観てきたのはイランの映画「ブラックボード〜背負う人」です。全くもって地味な作品なのですが、取り上げられている題材が重いというか、奥が深いというか、考えさせられる映画です。

場所はイラクとの国境を接する険しい山岳地帯。岩だけでできた険しい山岳と、深い谷があるだけだ。そんな山肌にある道を背中に黒板を担いだ10名ほどの男たちが歩いている。男たちは教師。勤めていた学校を爆撃で破壊され、黒板を担いで、学校もなく先生もいない村々を回り、読み書きや計算を教えて僅かなお金か施しを受けているのだ。
物語はこの集団から離れて谷を下る先生と、羊飼いの少年を探して山の高いところへ登る教師の若い二人を中心に進んでいく。

ボクたちは、字が読めたり書けたり、足し算や引き算が出来たり、九九が言えることになんの疑問も持たずに生活している。でも、それは教育を受けてきたからだ。この地球には、読み書き計算という最低限の教育さえ受ける機会がない人たちがどれだけいるのだろう。

本来なら友達と机を並べて、学校で勉強したり、校庭で遊んだりする年頃の子供達が僅かな収入のために、重いヤミ物資を背負って運ぶ「担ぎ屋」をして険しい国境付近を往復している。この仕事は常に死と隣り合わせなのに。
「計算が出来ると、分け前をごまかされずにすむぞ」と黒板を担いだ教師が子供達と並んで歩きながら諭しても、子供達の表情はうつろなままだ。
字が読めないより読めた方がいい。計算だってそうだ。だけど、そんなことをしている「余裕がない」。ここにある荷物は運ばないといけないし、先生に払うお金も、施す僅かな食べ物も持ち合わせてはいないのだ。
やがて、ある少年が「自分の名前を書きたい」と言う。先生は喜んで、黒板にチョークを使ってその子の名前を書いてやる。少年は先生の後ろを歩んで、その黒板に書かれた自分の名前を見ながら荷物を運ぶ。
休憩している時、少年は生まれて初めて自分の名前を書いた。それはきっと上手くない字だったけれど、この子にとっては一生忘れられない出来事だったに違いない。

もう一人の教師は、ただ黙々と歩く集団に出くわす。彼らは今まで住んでいた場所を戦争で追われ、生まれ故郷(イラク?)に戻ろうとしている老人達だ。

もし、この愚かな戦争(たぶん、「イラン・イラク戦争」)さえなければ、子供達は学校へ通い、老人達も悠々自適な生活を送っていたのだろう。教師だって、学校が破壊されることもなく、黒板を背中に担いで放浪してはいないだろう。
誰もストレートにセリフで「戦争が悪い」とは言っていないけど、戦争によって人々が背負わされた十字架はあまりにも重いように見えました。

日本では、塾や受験戦争、イジメや不登校、失格教師など、教育に関わる問題は凄く多いけど、これらは「平和」という「幸福」の上にあぐらをかいている結果生じてくる「副産物」なのかもしれませんね。

ちょっと大袈裟だけれど「教育とは何か」「平和とは」「国家とは」などを考えさせられる映画でした。現役の先生方に是非一度ご覧いただきたいですね。
会場は心斎橋・ビッグステップのパラダイスシネマ。一般の上映は今週一杯、その後はモーニングショーでもうしばらく上映されるようです。
火曜日の夜ということもあって、観客はボクを含めて10名に満たないという淋しさでした。

おしまい。