「ブラックボード/背負う人」 |
背負っているのは黒板だけではない |
すっかり「梅雨」本番のこのごろとなりました。みなさん、お元気ですか?
私は例の「ソウル風邪」もようやく完治し、このじめじめとした蒸し暑さにも負けず、元気にしています。 さて、今回観てきたのはイランの映画「ブラックボード〜背負う人」です。全くもって地味な作品なのですが、取り上げられている題材が重いというか、奥が深いというか、考えさせられる映画です。
場所はイラクとの国境を接する険しい山岳地帯。岩だけでできた険しい山岳と、深い谷があるだけだ。そんな山肌にある道を背中に黒板を担いだ10名ほどの男たちが歩いている。男たちは教師。勤めていた学校を爆撃で破壊され、黒板を担いで、学校もなく先生もいない村々を回り、読み書きや計算を教えて僅かなお金か施しを受けているのだ。 ボクたちは、字が読めたり書けたり、足し算や引き算が出来たり、九九が言えることになんの疑問も持たずに生活している。でも、それは教育を受けてきたからだ。この地球には、読み書き計算という最低限の教育さえ受ける機会がない人たちがどれだけいるのだろう。
本来なら友達と机を並べて、学校で勉強したり、校庭で遊んだりする年頃の子供達が僅かな収入のために、重いヤミ物資を背負って運ぶ「担ぎ屋」をして険しい国境付近を往復している。この仕事は常に死と隣り合わせなのに。 もう一人の教師は、ただ黙々と歩く集団に出くわす。彼らは今まで住んでいた場所を戦争で追われ、生まれ故郷(イラク?)に戻ろうとしている老人達だ。
もし、この愚かな戦争(たぶん、「イラン・イラク戦争」)さえなければ、子供達は学校へ通い、老人達も悠々自適な生活を送っていたのだろう。教師だって、学校が破壊されることもなく、黒板を背中に担いで放浪してはいないだろう。 日本では、塾や受験戦争、イジメや不登校、失格教師など、教育に関わる問題は凄く多いけど、これらは「平和」という「幸福」の上にあぐらをかいている結果生じてくる「副産物」なのかもしれませんね。
ちょっと大袈裟だけれど「教育とは何か」「平和とは」「国家とは」などを考えさせられる映画でした。現役の先生方に是非一度ご覧いただきたいですね。 おしまい。 |