「胡同模様」 |
市井の人々こそが文革の被害者だったのか |
続けてホクテンザで観たのは「胡同(フートン)模様」。
1970年代の初頭。四川省の片田舎にも文化大革命の嵐が吹き荒れていた。朱旭の住む街にも。
文革の嵐の中では、街に住む人たちにとって、何が革命的(いいこと)で、何が資本主義の手先(悪いこと)なのか、もう何が何だか分からない。ただひとつの生き延びる方法は、じっと息を殺して目立たないようにしていることだった。でもそうしていても、紅衛兵たちにどんな「言いがかり」をつけられるかわからない。それはもう「暗黒の時代」だったと言ってもいい。
嵐の吹くなか舟を漕ぎだしたものの、真っ暗で何も見えず、右に行けばいいのか、左に漕いでいけばいいのかさっぱり判らない。漕ぐのをやめて、じっとしていれば荒波に飲み込まれて沈んでしまう。もがくように一生懸命漕ぐけれど、一生懸命舟を漕ぐことが明日につながる保障なんてない。 文革時代には誰もが「毛バッチ」を胸に付け、「毛語録」を肌身離さず持っているのがなんか滑稽ですね。
この作品ももう上映が終わってしまいましたが、中国(大陸)でもこんな作品を撮ってしまうだけのパワーがあったことに驚いてしまいます。「文革とは何だ!」なんて軽々しくは言えませんが、文革を語るときにはこの作品と「シュウシュウの季節」は必ずご覧いただきたいですね。 おしまい。 |