「胡同模様」

市井の人々こそが文革の被害者だったのか


  

続けてホクテンザで観たのは「胡同(フートン)模様」。
主演は朱旭。薄幸の未亡人役は「山の郵便配達」で母親役をしていた人ですね。

1970年代の初頭。四川省の片田舎にも文化大革命の嵐が吹き荒れていた。朱旭の住む街にも。
その時の想い出を小説にまとめた朱旭のところへ成都(四川省の省都)から編集者が訪れた。今の原稿にもう少し手を入れれば良い話しになるので、そのアドバイスをしに来たのだ。朱旭は編集者を自分の職場や家に案内する。

文革の嵐の中では、街に住む人たちにとって、何が革命的(いいこと)で、何が資本主義の手先(悪いこと)なのか、もう何が何だか分からない。ただひとつの生き延びる方法は、じっと息を殺して目立たないようにしていることだった。でもそうしていても、紅衛兵たちにどんな「言いがかり」をつけられるかわからない。それはもう「暗黒の時代」だったと言ってもいい。
ほんの些細なことで、密告され、罪人扱いされトラクターの荷台に載せられる。罪状を書いた札を首から下げさされて! そして、広場に集められる。ここで「自己批判」をして、「革命を学習する」のだ。
今日も何十人もの人たちがさらし者になった末に広場に押し込められている。朱旭と犬肉屋の牛三、そして美貌の未亡人は取るに足らない罪状で自己批判させられた上に、何日も教室に閉じこめられて学習を受けさせられる。ただ従順さが無く、反抗的だという理由だけで...。

嵐の吹くなか舟を漕ぎだしたものの、真っ暗で何も見えず、右に行けばいいのか、左に漕いでいけばいいのかさっぱり判らない。漕ぐのをやめて、じっとしていれば荒波に飲み込まれて沈んでしまう。もがくように一生懸命漕ぐけれど、一生懸命舟を漕ぐことが明日につながる保障なんてない。
そんな暗黒の文革時代を丁寧に描いた傑作と言えるでしょう。
朱旭が編集者を案内して街を歩くなかで、小説に登場する人々にすれ違い、それぞれが文革の時代を生き延び、どう今を生きているのかが分かるのが悲しくもあり、辛くもあります。未亡人とその娘の姿を見て、心を痛まされずにはおれません。

文革時代には誰もが「毛バッチ」を胸に付け、「毛語録」を肌身離さず持っているのがなんか滑稽ですね。

この作品ももう上映が終わってしまいましたが、中国(大陸)でもこんな作品を撮ってしまうだけのパワーがあったことに驚いてしまいます。「文革とは何だ!」なんて軽々しくは言えませんが、文革を語るときにはこの作品と「シュウシュウの季節」は必ずご覧いただきたいですね。
文革は確かに悲劇だ。でも、悲劇だろうがなんだろうが、人間は生きて行かなくてはならない、そんなことを感じさせる映画でした。1985年の中国(大陸)の制作です。

おしまい。